木曜日
東洋の思想
朋友について
木曜日は、東洋の思想の日です。今日の題は、朋友について、です。東洋においては、朋友を持つに当たっての心構えが説かれています。
朋友とは、友人のことです。「朋」には同門の意味があり、「友」には同志の意味があります。朋友は、正しくは、同門、同志の意味なのですが、しかし、友人の意味と考えて間違いはありません。社会に生きる一般人は、友人を持つものです。しかし、友人を持つ際には、気を付けるべき態度があります。東洋の儒教の教えでは、自分の友人を選ばなければならないと主張しています。友人にも、選択基準があるわけです。友人の質が問われているのです。
友人は、有益な友人と、有害な友人とに分けられます。友人を選ぶ際には、自己にとって、有益な友人を選ぶべきなのです。有害な友人を選ぶべきではありません。付き合いを考えなければなりません。有害な友人と付き合っていれば、自分を向上させることができません。有益な友人とは、自分を向上させるような友人です。友人の選択基準は、自分の人格を向上させるかどうか、です。品性の悪い友人と付き合うべきではありません。しかしそれは、身分によって、友人を決めるべきである、という考え方ではありません。友人の選択基準は、身分には左右されません。貧乏人であるか、金持ちであるか、という身分の問題ではありません。社会的身分よりも、その人物の性格の問題です。「性格が悪い人物を、友人として選んではならない」という教えです。友人は、性格で決めるべきなのです。身分は関係ありません。友人の身分は問題ではありません。その友人の、心持ちが最重要です。身分の良し悪しではなくて、性格の良し悪しが、友人の選択基準です。性格の良い友人であれば、有益な友人です。そして、性格が悪い友人であれば、有害な友人です。有害な友人と付き合っていれば、自分の人格の向上がありません。自分の性格が、その友人と付き合うことによって、悪くなることが有害なことです。自分の品性を大切に考えているのです。外面的な身分よりも、品性を基準に友人を決めることが大切なことです。
友人としてふさわしい性格の一つは、正直であることです。正直に生きる人物であれば、友人としての基準を満たしています。騙し合いの関係では、真の友人関係を築くことはできません。そしてまた、誠意のある人物が、友人として有益な人物であると考えられます。誠意ある性格の人物を、友人として選ぶべきです。そして、幅広い知識を持っている人物であれば、有益な友人として認められます。見識の広い人物は、向上精神のある人物であると考えられます。反対に、友人として有害な人物は、上辺だけを取り繕うような性格の人物です。有害な友人は、有益な友人の性格と、反対の性格を持っている人物です。つまり、不正直で、誠意がなく、見識の狭い人物が有害な友人であると考えられるのです。有益な友人の条件としては、正直と誠意の性格が、最重要の項目なのです。見識の広さは、正直さと誠意の心を持って生きていれば、当然付いて来るものです。つまり、年齢に見合った見識の広さを持っていなければ、正直さと誠意ある心を疑われるのです。見識が狭い人物には、誠意がないのです。見識の広さは、誠意の心を証明するものです。見識の広さは、能力の問題ではなくて、正直と誠意の、性格の問題なのです。性格が悪いので、見識が狭いのです。誠意を持って日常生活を生きていれば、世の中に対する見識は広まります。つまり、見識の広さも、有益な友人の条件として判断される、大切な点であると考えられるのです。見識の広さと、誠意の心とが、結び付いているわけです。誠意の心が、人間の見識を広めるのです。見識が狭い場合、他人に誠意を尽くすことができません。誠意の心が本当であれば、人間は見識を広める行動をとるものです。正直な誠意の心が、見識を広めるのです。見識の広さと誠意の心とが、別々に考えられるのではありません。そのため、見識の狭い人物は性格の悪い人物であると判断できるのです。性格の悪い人物は、友人としては有害な人物です。有害な友人は、口先だけで不正直に、誠意なく生きている人物です。誠意のない人物には、広い見識もありません。友人を選ぶ際には、誠意の心が基本です。
それはつまり、自分が誠意ある人間とならなければ、真の有益な友人を得られない、ということです。有益な友人を得るためには、誠意ある人間となる必要があります。有益な友人は、有益な友人同士で付き合っているものです。有益な友人には、有益な友人がいます。自分に誠意の心がなければ、有益な友人たちの仲間に加わることができません。誠意がない人物は、有益な友人たちの集団から、仲間外れにされてしまいます。人間は、誠意ある性格を身に付けることによって、誠意ある友人を得ることができるのです。相手にだけ、誠意を求めてはなりません。相手にだけ誠意を求めた場合、その相手は、自分から遠ざかって生きます。相手にだけ誠意を求める関係は、長続きしません。片方だけが誠意の性格を持つ場合では、生涯の友とはなりません。自分に誠意の心がなければ、誠意ある人物は、自分から絶縁することになります。生涯の友を持つためには、誠意の心で結び付き合う必要があります。相手に友人としての条件を求めるのであれば、自分もその条件を備えている必要があります。誠意ある友人を持つためには、自分が誠意を持って日常生活を送ることです。
まず、自分が、正直に誠意を持って生活することです。嘘のない人生を送ることです。日々、反省の毎日を送りながら、正直に生きることです。そして、正直な誠意の心が発揮されれば、人間は、自分の見識を広めようと考えます。その結果、その人間は、正直な誠意の心を持った、見識の広い人物となります。友人関係は、不自然な関係では長続きしません。自然な友人関係であることが求められます。そのため、自分の品性は、日常的に変化させる必要があります。日常生活において身に付けた人間の品性が、正直な品性です。有益な友人関係においては、本心が重要です。本音で関わり合えなければ、有益な友人関係ではありません。嘘の誠意の態度は許されません。嘘の誠意の態度では、有益な友人関係を成立させることはできません。それは、騙し合いの関係です。誠意ある人格は、正真正銘のものを身に付けるべきです。付け焼刃の人格では、嘘が発生します。嘘を付くことは誠意ある態度ではありません。正真正銘の誠意ある人格を身に付けなければ、有益な友人関係を築くことはできません。そのため、日常生活から、自分の品性を変化させる必要があるのです。日常生活で身に付けた人格によって、自然な友人関係を結ぶことが重要です。
友人関係を結ぶ目的は、自分を向上させるためです。そして、友人の方も、自分と付き合うことによって、人生の向上を得るべきです。有害な友人関係とは、お互いの人生が悪い方向へ進む関係です。つまり、友人関係とは、人間の人生の中の一部分であると考えられるのです。人間の人生であるからには、そこには厳しさが付きまといます。友人関係の間にも、人生の厳しさが存在するわけです。そのため、人間には、厳しさを覚悟で、友人関係を築く態度が求められます。厳しさを乗り越えなければ、真の有益な友人関係を築くことはできません。自分が誠意ある人格を身に付けることも難しいことです。まず、自分の方が有益な友人としてふさわしい人格を備える必要があります。努力のない態度は、誠意のない態度です。厳しさに立ち向かう心が、誠意ある心です。そのため、有益な友人関係を保ち続けることは、難しいことであると考えられるのです。有益な友人関係は、やや困難な状態の中で、持続されているのです。有益な友人関係の中には、ある程度の厳しさがあります。厳しさの中に有益性が含まれているのです。
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