火曜日
西洋の思想
ヘーゲルの「弁証法」について
火曜日は西洋の思想の日です。今日は、ヘーゲルの「弁証法」について考えます。
ヘーゲルの弁証法というものは、「正・反・合」という言葉で有名です。それは、特に、ヘーゲルという人についての弁証法が、「正・反・合」という言葉で有名だというものではありません。弁証法と言えば、「正・反・合」なのです。ヘーゲルとは違う学者が主張する弁証法であっても、弁証法と言えば、「正・反・合なのだろう」と思えば、間違いではないのです。
弁証法というものは、対立を克服する動きのことです。「正」に対する、「反」があるのです。「正」と「反」とは、対立するものです。正と反とは、お互いに相容れないようなものです。別々のもの、分かれたものです。区別、差別されるものです。正と反とは、一緒にはなれないようなものです。主体と客体です。上と下、右と左です。精神と物質です。北と南です。正と反とは、そのように、区別されるものなのです。主客分離です。それが、「合」ということになると、正と反とが、合体するのです。主客合一です。正と反との対立が克服されたのです。もはや、「合」になれば、正と反とは対立していないのです。正と反との区別は解消されているのです。「正」に対する「反」ではなく、「正」と「反」とは、合体したのか、仲間になったのか、区別できないような状態になったわけです。つまり、「合」になれば、「正」と「反」との対立が克服されたのです。
そしてまた、今度は「合」は、新しい「正」になるわけです。「正」というものは、正しいものです。正しいものには、問題があってはなりません。問題があるものは、「正」ではないのです。しかし、「合」になれば、それまでの正と反との対立が解消されたので、問題はなくなったものなのです。だから、「合」は正しいのです。正しいものなので、「合」が新しい「正」になるのです。そしてまた、その「正」にも、問題が発生して、「反」が出るのです。問題を解決すれば、「合」になります。問題がある限り、正と反とは対立した状態です。対立を克服すれば「合」になります。そしてその、「合」に問題が出れば、同じように、正と反との対立が生まれます。主客の分離です。主客が分離しているということは、「絶対」ではないということです。
ヘーゲルという人は、つまり、「絶対」を求めている人なのです。だから、ヘーゲルの弁証法は、「絶対を求める弁証法だ」と考えられるのです。普通の人が使う弁証法であれば、二回か三回くらい、「正・反・合」を繰り返せば、それで気が済むのです。それでは確かに、絶対とは言えないのかもしれないのです。本人もその事は承知していたりするのです。しかし、深くは追求しないのです。「絶対」は求めていないのです。しかし、ヘーゲルの弁証法の場合は、普通の人の弁証法とは違い、「絶対」を求める弁証法だったということです。絶対の域まで追求する弁証法こそ、ヘーゲルの弁証法なのです。
弁証法というものは、運動であるのです。動きです。弁証法は、動いていなければならないのです。「正」があり、そして「反」があれば、矛盾対立が存在しているわけなのですけれども、しかし、その矛盾対立の中には、ある一つの「動き」が存在していると考えられるのです。その、動き、エネルギーというものとは、「今のこの矛盾対立状態を克服して、より高い状態へと移行しよう」とする動きです。正と反との矛盾対立状態は、止まっているのではなくて、動いているのです。運動するものとしてとらえなければなりません。運動しているのだから、正と反とは「合」になるのです。動いて止まることがないのです。つまり、弁証法というものは、発展する過程のものなのです。そして、どこまで弁証法は運動、発展するものなのか、と考えると、それが、「絶対まで」と考えられるのです。弁証法の動きは、絶対まで動くのです。普通の人は、弁証法を、絶対の域にまでは動かさないものです。しかし、ヘーゲルの場合は、弁証法を絶対の域にまで動かす、ということです。
しかし、弁証法というものの性格を考えれば、ヘーゲルのように、絶対を求める弁証法こそ、正しい弁証法なのかもしれません。正しい弁証法の姿というものは、絶対にまで運動を続けるものなのです。絶対にまで到達させることなく弁証法をやめてしまう、などということは、本当に弁証法を行ったことにはならないのかもしれません。弁証法とは、運動なのです。運動であるのに、その運動を止めて、止まったものを弁証法だと考えてはならないのです。弁証法を本当に行うのであれば、絶対の域に到達するまで運動を止めてはならないのかもしれません。だから、ヘーゲルの弁証法のように、絶対にまで動かすものが本物なのかもしれないのです。正と反との対立を克服して、そしてさらにその上の対立をも克服し続けるのです。克服し続ける、運動状態にあるものが弁証法なのです。弁証法に停止することは許されません。
そして、克服し続けた、その先にあるものとは、究極の絶対の境地だというわけです。絶対の存在者に出会える、と言うよりも、絶対の存在者になる、というわけです。絶対の状態を見て終わりではなくて、絶対の状態になるのです。絶対の状態を考えれば弁証法は終わるのではなくて、絶対の状態に完全に一体となってこそ弁証法は終わるというわけです。ヘーゲルの弁証法というものは、そのように、究極の状態が考えられているのです。発展の上に発展を重ねるのがヘーゲルの弁証法なのです。止まってはいけません。絶対の状態にまで進化し続けるのです。
そしてさらに、ヘーゲルの考えでは、世界全体の姿が弁証法だということです。そのように、ヘーゲルの弁証法は、世界観の一つでもあるのです。世界は生成して止まることのない、弁証法の動きだということです。
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