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土曜日

現代の思想




フロイトの「超自我」について


 土曜日は、現代の思想の日です。今日の題は、フロイトの「超自我」について、です。フロイトの精神分析学は、現代思想において有名な学説です。
 フロイトは、意識に対して独自の学説を主張します。フロイトは、自分ではっきりと自覚できるかどうかの状態によって、人間の意識を分類します。人間の精神、心を、意識の状態で、フロイトは分類して考えます。意識は、人間の精神、心のことです。自分の精神を、自覚できる程度によって意識が区別されます。フロイトによれば、意識は三種類に分けられます。それは、意識を自分で自覚できる、程度の問題です。まず、はっきりと自覚できる精神が、意識です。そして、自覚できる可能性の高い精神が、前意識です。三番目が、自覚できる可能性の低い精神である、無意識です。日常生活において、人々は自分で意識できる心を、自分の心の全体であると考えています。しかし、フロイトの考えによれば、自分で自覚できる心は、自分の心の全てではないのです。人間は、自分で自覚できない精神を持っているのです。一般人は、「私の心が」とか、「私の人格は」などの言葉を使うものです。しかし、「私の心」の全体を、人間は自覚できていない、ということです。
 人間の一番身近な存在としては、その本人であると考えられます。人間は、常に自分と関わり合いながら生活しています。それは当然のことです。人間は、自分と一緒に生きているわけです。自分は、自分にとって身近な存在です。つまり、自分のことを一番理解している人間は、自分なのです。自分が、自分の一番の理解者です。他人は、自分の一番の理解者ではありません。自分のことは、本人が一番分かっているのです。しかし、自分を一番に理解する、自分が、自分の全体を把握できないのです。人間は、本人で把握できる部分が限られているのです。人間は、自分で意識できる部分でなければ、自分を把握できません。そして、人間の心には、自分で意識できない部分があります。自分で意識できない部分は、本人であっても把握することができません。自分の心であるのにも関わらず、自分で自分の心の全体を把握できないのです。人間は、自分の心であれば、全体を理解できていると思うものです。フロイトによれば、本人であっても、自分の心の全体を理解することはできないのです。人間は、自分の心が分からないのです。
 そのフロイトの説は、誰にでも納得される主張です。それは、納得できる経験を、誰もが体験している事柄だからです。人々は、経験上で、フロイトの説を理解することができます。人々は、過去の記憶を持っています。人々は、過去の記憶を思い出すものです。過去の記憶を一つも持たない人間はいません。人々は、自分の過去の記憶を、多く持っています。しかし、その自分の過去の記憶の中で、自分では思い出すことができない記憶があるわけです。フロイトの主張に大きな説得力がある理由は、人間が完璧に過去の記憶を思い出せないからです。人間には、欠陥があったのです。その欠陥の部分を、フロイトは自分の説に利用したのです。それは、人間の全員に共通する欠陥です。そのため、その欠陥を利用したフロイトの学説は、有名な学説として認められたのです。人間が、完璧に過去の記憶を思い出すことができる存在であれば、フロイトの説に対する評価も異なっていたのです。つまり、人間は、記憶力が完璧ではなかったのです。人間には、記憶力の点において、弱みがあったのです。その弱点を、フロイトは突いたのです。そのため、誰もが、フロイトに反論できないのです。フロイトに反論するためには、人間には完璧な記憶力が必要です。しかし、完璧な記憶力を持つ人間は一人もいません。過去の記憶の中で、思い出せない部分を人間は持っています。人間は、自分の全部の記憶を、全部思い出せません。しかし、自分の全部の記憶の中から、一部分であれば、人間は思い出すことができます。その部分も、フロイトの主張に大きな説得力を持たせます。人間は、自分の全体の記憶の中から、一部の記憶を思い出すものです。思い出すことのできる、一部の記憶が、フロイトの考える意識に当たります。思い出せない記憶は、無意識に当たります。それは、人間の誰にでも共通する性質です。全員の人間に共通する性質なので、フロイトの主張には説得力があるわけです。
 つまり、フロイトの主張は、人間の記憶力に関する問題なのです。フロイトの説は、記憶主義の説であると考えられます。それは、経験主義の説でもあると考えられます。フロイトの説は、人間の経験を重視する説です。経験したことでなければ、フロイトは信じないのです。フロイトにとっては、経験と記憶が第一です。自分が過去に経験して、記憶したこと以外は、フロイトの真理ではないのです。フロイトは科学主義の立場なのです。フロイトは、自分の体験を確実であると考えるのです。体験したこと以外は確実ではありません。フロイトの説は、完璧な記憶力を持たない人間にとっては真理です。どのような人間も、フロイトの説に反論することは不可能です。人間は記憶力に弱点があります。フロイトは事実を大切にします。観察した事実を大切に考えて、フロイトは学説を発達させるのです。学説は、事実に立脚した主張であるべきです。フロイトは、実際の病院の現場で、患者を治療していました。事実無根の学説では、実際の患者を治療することはできません。フロイトの仕事は、患者の苦しみを実際に取り除くことです。経験主義でなければ、実際の患者に対応することはできません。
 確かに、フロイトも、人間の意識が万能であれば、それ以上のことはないと思っていたのです。不完全な人間よりも、完全な人間の方を好ましく思うことは確かです。できれば、人間の記憶力が完璧であって欲しいものです。しかし、フロイトは現実の状況を直視するわけです。フロイトは、事実から目を背けないのです。病気の人々が、いない世界がフロイトの理想です。理想の世界では、病気の発生しない、完璧な人間が生きている世界です。しかし、現実の人間は、病気が発生するような、不完全な存在なのです。人間の不完全さを、フロイトは認めるのです。人間は、現実主義で生きるべきなのです。現実主義で生きない人間は、病気で苦しむ人間を救う態度を持たない人間です。病気の患者を、フロイトは救う態度なのです。人間の意識を万能であると考えるような学者は、現実逃避の学者なのです。現実の人間は、万能な意識を持っていないのです。
 フロイトの「超自我」は、フロイトの分類する三種類の意識の中の、前意識と、無意識の意識に当たる、人間の心です。フロイトの「超自我」は、自我に対して、良心の声として働くものであると考えられます。自我は、人間の人格と関係する意味合いがあります。自我の場合も、意識と同じように、本人であっても支配できない部分が存在するのです。人間の自我にも限界があると考えるのです。人間は万能ではない、ということです。人間は、自分で自分を完全には支配できないのです。人間は、自分の中の、自分で理解していない部分から、影響を受けてしまうのです。可能であれば、他の影響を一切受けずに、自分で全てを決定できる、万能な自我を人間は持ちたいものです。人間の自我には、完全な決定権を持たせたいものです。しかし、完全な決定権を自我は持っていないのです。人間の自我は単純な構造ではありません。人間の心は、複雑である、ということです。フロイトは、人間の心の複雑さを、実際の現場で深く理解しています。人間の心を単純に考える人物では、他人の心を苦しめます。心は、自分で自覚できる部分が全てではないのです。心を単純に考える人物は、自分で自覚できる部分だけを、心の全部であると思い込んで譲りません。それは、狭い視野に立つ人物です。狭い視野を持つ人物が、他人の心を苦しめるのです。人間は、大らかな気持ちを持つべきです。そのためには、人間の不完全さを認めるべきです。人間の持つ、弱点と、不完全さを認めるのです。








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