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金曜日

西洋の倫理・道徳




フランチェスコの清貧について


 金曜日は、西洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、フランチェスコの清貧について、です。フランチェスコは、中世の西洋において活躍した人物です。
 フランチェスコは、フランチェスコ教団を創立した人物です。フランチェスコは、キリスト教の影響を受けている人物です。しかし、フランチェスコの考え方は、正統派のキリスト教の考え方とは多少異なっていたものでした。フランチェスコの教えを守ったフランチェスコ教団の人物が、正統派のキリスト教会から異端の裁判を受けています。フランチェスコは、清貧に生きるべきことを主張します。フランチェスコ教団に所属する団員は、フランチェスコの教えを守り、清貧に生きなければなりません。フランチェスコ教団は、清貧を守って人生を送るのです。フランチェスコ教団は、キリストは清貧に生きていたと主張します。そのため、フランチェスコ教団は、自分たちの教団の正統性を訴えたのです。しかし、正統派のキリスト教会からは、裁判によって、異端であるとの判決を受けたのです。
 フランチェスコ教団では、私有財産の所持を否定します。フランチェスコ教団に入団するためには、私有財産を放棄する必要があります。そして、フランチェスコ教団には、教会の施設や、寝泊りのための住居がありません。フランチェスコ教団は、清貧の目標を達成するために、教団の私有財産を否定したのです。フランチェスコ教団には、家も教会もないのです。フランチェスコ教団の日常生活は、基本的には野宿であったと思われます。そして、住居の中での寝泊りが許される場合は、物乞いが受け入れられた場合です。住居を持っている人間から、宿を貸してもらうのです。物乞いであれば、家の中で寝ることが許されたのです。自分の家を持つことは許されないことです。フランチェスコ教団は、自分の家を持つことができないので、自分の家で生活できません。また、フランチェスコ教団には、自分たちの教会の施設もありません。宗教教団は、多くの場合、豪華な施設を保有しているものです。フランチェスコ教団には、施設がありません。それは、持つことを禁止するためです。資金があれば、施設を作る考えではありません。フランチェスコ教団では、資金を蓄えることは禁止されています。
 フランチェスコが財産を否定した理由は、人々の間の貧富の差を解消させるためであると考えられます。人々の間の、貧富の差から、様々な苦しみが起こるのであると、フランチェスコは考えるのです。「人間たちは、平等な生活をすることが理想である」という考え方です。貧富の差は悪であり、平等は善であるとフランチェスコは主張するのです。貧富の差を解消するためには、私有財産を否定する必要があるのです。私有財産を持つと、貧富の差が生じます。財産を持つ人間と、財産を持たない人間とに別れます。財産の保有の程度に、上下が生まれます。そのため、フランチェスコが理想とする社会は、共産主義社会であると考えられます。共産主義社会が実現すれば、人間たちの間で、貧富の差がなくなります。私有財産の所有の程度が平等な社会です。フランチェスコは、格差社会を否定するのです。人々の間で、生活の格差があることをフランチェスコは許しませんでした。人間は、財産を持つことから格差社会を生み出すのです。格差社会は、人間にとって不幸な社会であるとフランチェスコは考えたのです。
 格差社会は、フランチェスコの主張では、人間たちにとって不幸な社会です。そこでフランチェスコがとった行動は、野宿の生活でした。野宿の生活をすることによって、人々の幸福な人生を実現させるのです。フランチェスコにとっては、野宿の生活は、人間の不幸な生活ではないのです。野宿と物乞いの生活は、貧富の差のある社会生活よりも、人間にとっては幸福な生活であるとフランチェスコは考えるのです。野宿と物乞いの生活が、人間の幸福な生活なのです。貧富の差のある社会は、絶対に許されないのです。貧富の差のある社会に対して抵抗するためには、人間は私有財産を放棄して、野宿と物乞いの生活を送るべきです。格差のある社会よりも、人々の全員が野宿と物乞いの生活を送る社会の方が、人々の幸福な社会である、ということです。貧富の差をなくすために、社会の人々が全員で、私有財産を放棄して、野宿の生活を送るのです。野宿の生活は、特に不幸な生活であるとは考えません。つまり、問題は、格差社会の中で生活を送るのか、野宿の生活を送るのか、選択しなければならない、ということです。
 フランチェスコは、格差社会の生活よりも、野宿の生活を選択しました。野宿の生活であれば、人間たちの間で貧富の差がありません。フランチェスコにとっては、貧富の差は絶対悪なのです。平等な社会が人間にとっての理想の社会です。貧富の差がある場合、貧しい人々が苦しむことになります。貧富の差がある社会は、財産を多く持っている人物だけが幸福になる社会です。貧しい人々は、不幸な人生を送ります。財産に格差がある場合、人々の生活にも格差が生まれます。格差があれば、社会の全員が幸福な生活を送っていないことになります。社会の全員が幸福な生活を送るべきです。社会の中の一部分の人間だけが幸福な人生を送り、そして残りの人々は不幸な人生を送るような社会状態は避けるべきなのです。共産主義社会が人間にとっての理想の社会であると考えるわけです。そして、共産主義社会を実現するために、フランチェスコは野宿の生活を送るのです。貧富の差のある社会は、人々の野宿の生活によって解消されるのです。人々が野宿の生活を送れば、財産を持つ人間がいないので、社会の中から貧富の差を解消させることができます。人々が野宿の生活を送れば、平等な社会が実現されます。
 つまり、清貧の生活は、野宿の生活である、ということです。清貧の生活を送る覚悟がある場合、野宿の生活を覚悟する必要があります。野宿の生活を否定している間は、清貧の生活を送っていないのです。野宿の生活を肯定できてこそ、清貧の生活を送る資格が認められるのです。清貧の生活の本質は、野宿の生活なのです。清貧の生活を送る以上は、私有財産を否定しなければなりません。私有財産を否定する態度が、清貧の生活の本質です。私有財産を否定すれば否定するほど、理想的な清貧生活に近づくのです。そして、完全な野宿生活が、究極の理想的な清貧生活です。つまり、野宿の生活に近づくほど、理想の清貧生活に近づくのです。清貧生活の目的は、私有財産の否定なのです。自分の私有財産を頑固に守っている態度は、清貧の態度ではありません。自分の私有財産に執着しない態度が真の清貧の態度です。私有財産にとらわれない心が重要です。つまり、貧乏人であっても、自分の私有財産にむさぼりついて生きている間は、全然清貧の生活を送っていないのです。「自分の私有財産を捨てても構わない」という心境を持っていなければ、清貧の生活は、形だけの生活です。
 その部分が清貧の生活の難しい所です。貧乏生活と、清貧生活とは異なるのです。貧乏生活であれば、誰にでもできることです。しかし、清貧生活には、外見上の貧乏生活に加えて、心の持ち方が要求されます。確かに、外見の上では、貧乏生活と清貧生活とは変わりありません。貧乏生活も清貧生活も、財産のない状態の生活です。財産のない点であれば、どちらの生活も共通しています。持っている私有財産が、極めて貧しい状態です。しかしそれは、外見上での共通点なのです。貧乏生活と清貧生活とは、その中身が異なります。貧乏生活を送る人物の場合は、苦しくて不幸な感情を抱いて生活を送っています。それに反して、清貧生活を送る人物の場合は、楽しくて幸福な感情を抱いて生活を送っているのです。清貧生活の場合は、幸福感を抱きながら生活しているのです。フランチェスコの場合は、野宿の生活に満足していたので、清貧の生活を送っていたと認めることができます。








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