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土曜日

現代の思想




ミシェル・フーコーの「狂気」について


 土曜日は、現代の思想を考えます。今日の題は、ミシェル・フーコーの「狂気」について、です。ミシェル・フーコーという人物は、現代の思想家で有名な人物です。
 ミシェル・フーコーは、病人について考えるのです。なぜ、病人が発生するのであろうかと、フーコーは考えるのです。それは、医学的見地からの、病気の発生するメカニズムを考えるものではありません。病人が生まれることを、医学的にフーコーは考えるのではありません。フーコーは、社会の中に生きる人が、病人であると社会から認定されることについて考えるのです。フーコーは、社会の中の病人というものを考えるのです。
 つまり、病人は、普通の人ではないのです。その、「普通の人」と、「病人」とを、どのように区別すれば良いのでしょうか。「普通の人」と、「病人」との区別は、社会が行うと、フーコーは考えるのです。社会が、ある人のことを、病人であると認定するのです。フーコーの考えでは、社会によって、病人となる基準が異なっている、ということです。同じ国であっても、時代によって、病人として社会から認定される基準が変化するのです。つまり、ある時代の社会では「普通の人」で生きられた人が、違う時代の社会の中では、「普通の人」では生きられない事態も発生する、と考えられるのです。フーコーは、病人を病人として認定する、社会のことを考えるのです。
 そこでは、「普通の人」と「病人」とが、対立しているのです。フーコーは、病人は社会が作り出している、というように考えるわけです。病人として社会から認定されると、どのようなことが考えられるのでしょうか。病人は、普通の人ではないので、病人は差別の扱いを受けるのです。差別を受ければ、病人は、普通の人とは同じ共同体の社会の中で生活することができないようになります。病人は、隔離されるのです。病人と普通の人との、共存の問題があるのです。病人と普通の人とは、どのような関わり合いを持ちながら生きるべきであるのかを考えなければなりません。社会から病人であると認定された人も、生きているのです。病人にも人権があるのです。誰でも、社会の中では、普通の人としての暮らしを望むものです。社会から、普通の人としての扱いを受けたいと、誰でも思っているのです。社会から、病人として認定されるのは拒否したい気持ちです。社会から病人としての認定を受けることになれば、人々から差別されることになるのです。
 そのような問題は、狂気の人についても考えられます。狂人は、普通の人ではない、ということです。狂人は、普通の人と同じ集団の中で生きられません。狂人は、普通の人から差別されるからです。つまり、狂人も、病人も、同じように、差別される、ということです。しかし、狂人を狂人として認定するものについて、フーコーは考えるのです。そして、社会が狂人を狂人として認知するものであると、フーコーは考えるのです。そこで、狂人の戦いが始まるのです。狂人は、自分を狂人として認定した、社会と戦うのです。狂人の敵は社会であるのです。
 つまり、その狂人は、社会から人格を否定されたのです。そのため、その狂人は、自分を否定する社会と戦うのです。しかし、社会から、その狂人を見れば、「狂人の性格を直しなさい」という意見なのです。社会は、狂人に、「性格を直す努力をしなさい」と、言うのです。しかし、狂人は、社会からの意見を受け入れない、ということです。狂人は、狂人として生きて行くのです。狂人は、自分の性格を直さないのです。狂人は、狂人の性格を貫き通すのです。フーコーは、狂人の人格を否定せずに、認めるべきであると主張するのです。
 社会の中の、狂人の歴史には、時代ごとに変化があるとフーコーは考えます。その、狂人の歴史に対して、大きな変化を与えたものは、近代での、社会が「理性」を重視するようになる出来事です。つまり、社会が「理性」を重視するまでは、普通の人の集団の中で、狂人は問題なく、人々と共存していたのです。それが、近代に移り変わり、社会が「理性」を尊重するようになったのです。その結果、社会からの狂人に対する差別が、強くなったのです。フーコーは、「理性」が問題であると考えるのです。狂人と、普通の人とを区別するものは、「理性」であるとフーコーは考えるのです。狂人には理性がないのです。狂人には、「狂気」があるのです。つまり、狂人と普通の人との対立は、「狂気」と「理性」との対立の中にあると考えられるのです。近代に入って、狂人が社会の片隅へ追い込まれた原因は、近代人が人間の中の、「狂気」の部分を、悪いものであると考えるようになったからなのです。フーコーは、人間を理性的な存在であるとだけ考える見方に、異議を唱えるのです。人間には、理性的な部分だけではなく、非理性的な、狂気の部分もあるとフーコーは考えるのです。
 つまり、社会の人々が、人間の中にある狂気の部分を認めれば、狂人への差別が減るのです。狂人への差別が減り、そして、普通の人と狂人とが共存できる社会となるのです。社会の中では、「理性」のある人は、普通の人であると認められるものです。しかし、その場合は、「理性」だけを尊重しているのです。人間の、「理性」以外の部分を、全然見ていません。理性があるのかどうかだけで、人間を判断するのです。そのような態度では、差別は減らないのです。人間を、全体的な観点から見なければならないのです。人間という存在には、理性的な部分と、狂気の部分との、その両方を認めるべきなのです。人間という存在に対して、理性と狂気との、両方の性質を認めれば、人間社会の中から、差別される狂人の数を減らすことができます。つまり、人間の中にある、狂気の性格を認めて、狂人と共存できる社会を目指そう、ということです。普通の人も、狂人も、同じ社会の集団の中で、共に生きるべきである、ということです。
 それは確かに、狂人を差別してはならないのかもしれません。狂人にも人権を認めるべきです。しかしまた、狂人にも、果たすべき義務があるのかもしれません。普通の人は、狂人を差別して、狂人の人権を傷付けてはならない、ということです。そしてまた、同時に、狂人も、普通の人の人権を、侵してはならない、と考えられます。普通の人にも、狂人にも、人間としての権利と義務とがあるのです。狂人は、人間として、保護されなければなりません。しかし、普通の人も、人間として保護されなければならないのです。つまり、狂人の利権だけを拡大させるべきではない、ということです。
 近代は、人間の理性を偏重する主義であったと、フーコーは考えます。しかし、今度は逆に、人間の狂気を偏重する主義で進むべきであると、考えてはならないのです。理性主義から、狂気主義に走るべきではないのです。理性と狂気との、共存を考えるのです。いかにして、理性と狂気とを共存させて人間は生きるべきであるのかを考えるのです。それは確かに難しい問題です。その問題を考えながら、狂人と共存できる社会を目指すのです。








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