トップページへ                 西洋の思想ページへ




火曜日

西洋の思想




フランシス・ベイコンの「偶像」について


 火曜日は、西洋の思想の日です。今日は、フランシス・ベイコンの「偶像」について考えます。フランシス・ベイコンは、近世の西洋で活躍した、有名な人物です。
 フランシス・ベイコンの偶像論は、イドラ論と呼ばれたりもします。ベイコンは、偶像論によって、ベイコン以前の時代の学問を批判します。ベイコンは、自然科学的な学問の方法を重視する態度です。学問は、帰納の方法によって進歩させるべきであると、ベイコンは考えます。事実を多く集めた上で、知識を得るのです。ベイコンは、知識の問題に関する、新しい主張をした人物なのです。ベイコンは、中世から近世へと移り変わる歴史の中で、時代を反映する意見を主張したのです。近世の時代から、西洋では自然科学が発達する時代となります。そのような、近世の始まりの時代と、ベイコンの偶像論とが、適合していたのです。また、ベイコンの態度が、進歩的な態度だったのです。ベイコンの姿勢は、伝統的なものを受け継ぐだけの、保守的な姿勢ではありませんでした。ベイコンの以前の時代では、人間の持つ知識に対しては、未整備な状態だったのです。学問に関する知識においては、宗教的な知識と、自然科学的な知識とが、混在していた時代でした。その時代の中で、ベイコンは、学問の知識の問題を考えるのです。
 ベイコンの「偶像」とは、人間に誤った知識を持たせる、幻影のことです。「イドラ」を、「偶像」と訳したり、「幻影」と訳したりするわけです。ベイコンの偶像論は、学問の正しい方法を考えるものです。学問の研究に当たっては、どのような方法で行うべきかを考えるのです。人間は、学問を研究して、知識を得ます。しかし、学問の研究方法が間違っていれば、人間は、間違った知識を信じることになります。せっかくの研究の努力が、無駄なものとなります。また、研究が無駄になるどころか、人々の間に迷信を広める結果にもつながります。間違った研究方法によって、社会に害を与える可能性があります。学問を研究するのであれば、社会に有益な成果をもたらすことが望ましいことです。正しい研究方法さえ間違っていなければ、成果を収めることは可能であると考えられます。そのような、正しい研究方法について、ベイコンは、偶像論の中で考えるのです。
 しかし、ベイコンの偶像論は、学問を研究する者にとってのみ参考となる意見ではありません。ベイコンの偶像論は、学者以外の人間にとっても、参考となる意見なのです。なぜなら、ベイコンの偶像論は、学者だけではなく、人間全体に共通する性質を述べているからです。ベイコンの偶像論では、学問を研究するに当たって、人間が犯しやすい過ちを指摘します。そのため、人間であるのならば、誰もが、ベイコンの偶像論の中で指摘される人物に該当するわけです。つまり、人間の考え方には、共通した性質を見ることができる、ということです。人間は、考え方が、似通っているのです。人間の持つ、考え方の習性のようなものです。ベイコンの偶像論では、一つの、人間の本質が語られているのです。「人間とは何か」を考える際にも、ベイコンの偶像論は参考となるのです。科学の研究者だけではなく、人間全体の、一般人にも、ベイコンの偶像論は役に立つ意見なのです。それは、学問の、研究内容が述べられているからではありません。研究内容が述べられているのであれば、その研究内容に関心のある人にのみ、役立つものです。しかし、ベイコンの偶像論は、学問の、研究方法を述べたものであり、さらにそれは、人間全体に共通する、人間の、考え方の習慣を述べたものです。そのため、ベイコンの偶像論は、人間の生き方と、密接な関わり合いを持つ意見なのです。なぜなら、人間は、考え方が変われば、生き方も変わるものだからです。ベイコンの偶像論を参考にすることによって、考え方を変えれば、人生の生き方も変わるものなのです。つまり、ベイコンの偶像論によって、人間の、物事に対する姿勢が変化するのです。物事に対する基本的な姿勢が変化すれば、人間の人生にも、変化が見られるのです。そのため、ベイコンの偶像論は、人々の間で有名になったのです。
 ベイコンの考える偶像にも、種類があります。ベイコンは、人間は偶像によって、誤った知識を持つので、注意しなければならないと、主張します。その注意は、学者だけを対象にするのではありません。ベイコンは、人間全体を対象にして、注意します。ベイコンは、偶像の知識に、否定的な態度を取ります。ベイコンは、偶像の知識を、完全に否定してはいません。偶像の知識を人間が持つことは、人間にとって、避けられないことであると、ベイコンは考えるのです。ベイコンは、人間の限界にも挑戦しているのです。つまり、ベイコンは、人間という種族の壁に突き当たり、人間の限界を感じたのです。ベイコンの偶像論は、人間存在の、本質的な悩みとも関わっているのです。ベイコンは、偶像の知識を否定します。しかし、ベイコンでは、偶像の知識を完全に否定できないのです。理想としては、偶像の知識問題を、完全に解決することです。しかし、ベイコンは、偶像の知識問題を、完全に解決していません。ベイコンも、真理を追求します。もしも、可能であるのならば、ベイコンは、真実の知識を得たいと考えます。偶像の知識を、人間は乗り越えて、真実の知識を得るべきであると、ベイコンは考えます。ベイコンが、偶像論を主張したことは、ベイコンが、真実の知識を求める心を持っていたからです。ベイコンは、偶像問題に立ち向かうことによって、真理を得ようと考えたのです。ベイコンの偶像論の裏には、ベイコンの、真理の探究心があるわけです。つまり、ベイコンは、人間の本質に迫っているのです。ベイコンが、真理を追求すればする程、ベイコンは、偶像の壁に突き当たるのです。偶像の種類の数だけ、人間を真理から遠ざける、壁の種類が存在するのです。ベイコンが偶像を発見した、ということは、ベイコンが真理を隠す壁を発見した、ということです。そしてその、偶像の壁が、人間の前に立ちはだかっているのです。それは、学者だけの問題ではありません。ベイコンの偶像論の問題は、人間全体の問題です。人間が、真理に到達できるかどうかの問題です。
 まず、ベイコンは、真理を得ることを望むのです。すると、その流れから、ベイコンは、真理ではないものを考えます。その、真理ではないものが、偶像です。そして、今度は、偶像を避ければ、真理を得られると、ベイコンは考えるのです。では、真理を得るために、人間が避けなければならない、偶像とは、どのようなものであるのか、と、ベイコンは考えます。ベイコンは、偶像を否定する立場なのです。そして、ベイコンは、いくつかの、偶像の種類を発見します。ベイコンにとっては、発見された、それらの偶像が問題となります。それらの偶像の問題さえ解決できれば、ベイコンは真理に到達できるわけです。ベイコンに、難題が突きつけられたのです。しかし、ベイコンは、その難題を、完全に解決できなかったのです。そのため、ベイコンは、偶像論で、人間たちに対して、注意を呼びかけることにとどまらざるを得ないのです。ベイコンは、真理を覆う、偶像の壁を発見したことを、人間たちの前に提示するのです。それは、ベイコンの問題提起です。確かに、問題を完全に解決できれば、それ以上のことはありませんが、しかし、問題を発見することにも、価値はあるのです。








トップページへ                西洋の思想ページへ






当ホームページ内の文章の引用・転載を禁止します。(C)matsui genemon.