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金曜日

西洋の倫理・道徳




エラスムスの『愚神礼賛』について


 金曜日は、西洋の倫理・道徳の日です。今日のテーマは、エラスムスの『愚神礼賛』について、です。エラスムスは、西洋の、ルネッサンスと宗教改革の時代に活躍した人物です。
 エラスムスは、『愚神礼賛』という書物の中で、当時の教会の現状を批判しています。その当時の教会の体制には、エラスムスは、宗教心を感じ取ることができなかったのです。エラスムスは、宗教心を大切にするのです。しかし、当時の教会は、形式的、儀式的な面を重要に扱っていたのです。エラスムスは、「形より中身である」と主張するのです。宗教で最も大切にしなければならないものは、宗教心であるとエラスムスは考えるのです。教会の教父たちは、教会の制度や体制を保護することに努めているだけで、全然、宗教心がない、とエラスムスは批判します。当時の教会の教父たちには、宗教の信仰で最も重要な、宗教心が欠けていると、エラスムスは主張したのです。
 例えば、免罪符があります。教会で免罪符を購入すれば、罪が軽くなる制度です。しかし、罪を犯した人は、免罪符によって、自分の犯した罪から逃れられると思ってはならないのです。罪を犯したことは、免罪符で解決できる問題ではないのです。免罪符という、形のあるものが重要なのではなくて、罪に対して悔い改めるという、宗教心が重要なのです。罪を悔い改める心のない人間には、免罪符を購入しても、神の救いはないはずです。免罪符を購入すれば、人間は神から救われるのではありません。免罪符を持たない人も、宗教心が深ければ、神から救われるのです。逆に、免罪符を持つ人であっても、宗教心が備わっていなければ、神の救いはありません。つまり、免罪符は、宗教の信仰に関しては、不必要なものなのです。免罪符の制度は、教会が形式を重視している証拠です。エラスムスは、宗教の信仰の、本質を大切にするのです。免罪符を大切に扱う行動は、宗教の信仰の本質から、遠ざかっています。宗教の信仰の本質は、宗教心なのです。免罪符が、あるのかないのかについては、罪の問題において、重要であるとは考えられません。そのような免罪符を取り扱う教会に対して、エラスムスは疑問を投げかけるのです。免罪符で人間の罪が軽減されると考えているような教父たちには、宗教心がないのです。免罪符で罪が軽減されるのなら、免罪符を多く購入できる金持ちの人は、簡単に天国へ行くことができます。罪を多く犯して、その自分の犯した罪を悔い改めることのない人間が、免罪符を購入することで、天国へ行くのです。教会にも、責任があるわけです。教会は、免罪符を作ってはならないのです。そして、教会は、罪を悔い改めることのない人に対して、免罪符を売り渡してはならないのです。しかし、そもそも、教会は、人間を、天国へ送るのか地獄へ送るのか、決められないはずです。教会に頼めば、人間は天国へ行けるのではありません。教会には、人間を裁くような力は持っていないと考えられるのです。教会の作る免罪符は、人間の犯した罪に対して、何の効力も有してはいないのです。協会が免罪符を人々に渡すことは、一つの儀式のようなものなのです。教会は、そのような儀式を大切にしているのです。教会は、儀式よりも、本質を大切にしなければならないと、エラスムスは考えるのです。宗教の本質は、宗教心です。
 その他にも、当時の教会に対しては、免罪符以外の問題を考えられます。当時の教会における最重要の問題点は、宗教心が欠落していたことです。当時の教会の、制度や体制はもちろん、その教会の教父たちも、形式的、儀式的な面を保持する姿勢だったのです。教会の制度が整備されれば整備されるほど、教会は宗教の本質から離れてしまっていたのです。教会は、制度の整備に気を取られて、宗教の本質を忘れていたのです。当時の教会は、宗教で最も大切にするべき本質とは何であるのかを、深く考えなければならなかったのです。当時の教会は、問題が山積みであったのです。当時の教会は、人々に正しい宗教心を備えさせる役割を果たしていなかったのです。教会の本来の役割は、人々に正しい宗教心を教え、そして、苦しみ悩む人々の心を救済することです。その、教会の本来の役割が果たされていないのです。当時の教会の問題点は、宗教の形式的、儀式的な面を重視していたことです。教会が、権威的だったのです。
 エラスムスは、当時の教会の形式的、権威的な面を、その教会の教義の中にも見ています。教会の制度だけが形式的だったのではなくて、教会の教義までもが形式的であったとエラスムスは考えるのです。教会の、神学も問題であったのです。それは、やはり、形式的な神学であるとエラスムスは考えます。神学にも、宗教心のある神学と、宗教心のない神学とに分けられるのです。宗教心のない神学では、人々に正しい宗教心を芽生えさせることができないと、エラスムスは考えるのです。
 形式的な神学というものは、どのような神学であるのでしょうか。それは、問題を、論争上での、言葉だけで解決するような神学です。議論だけで問題を説明する神学が、形式的な神学であると考えられます。宗教で最も大切なものは、宗教心なのです。その宗教心が、当時の教会の神学には欠落していたのです。宗教の魂が、神学の中に入っていないのです。知性と教養とが備わっている当時の教父たちは、教父同士で、信仰上の教義の論争を行っています。そして、その論争によって、確かに、文句が付けられないほどの、見事な教義が考えられています。しかし、宗教の問題は、論争だけで解決できるものではない、とエラスムスは主張するのです。知性さえあれば、それで十分であると考えてはならないのです。宗教の本質は、神学論争を説明できる知性にあるのではないのです。神学論争を解決できたとしても、宗教問題を全て解決したことにはならない、ということです。宗教は論争で片付けられるものではない、という主張です。当時の教会の神学は、宗教問題を、知性だけで片付けていた部分があったのです。そのような神学の教義の内容は、形式的なものであると考えられます。それは、宗教の本質を見落としている神学なのです。宗教の問題に対して、言葉だけで全てを解決できると考えてはならないのです。
 エラスムスは、言葉よりも、心を大切にするのです。そして、当時の教会には、形式や言葉を大切にする姿勢だけが見られたのです。しかし、宗教で最も大切であるはずの、宗教心を、当時の教会は持っていなかったのです。教会は、教会の権威を守ることだけに努めていたのです。当時の教会の権威は大きなものでした。そして、教会は、教会の権威に反対する人たちには、救いの手を差し伸べませんでした。当時の教会は、救いの対象となる人間を、差別的に考えていたのです。教会に利益をもたらすような人にのみ、教会は救いの手を差し伸べたのです。しかし、エラスムスは、そのような当時の教会の現状に対して、異議を唱えるのです。教会は、形式よりも、本質を大切にするべきであると、エラスムスは主張するのです。エラスムスは、形よりも、中身を充実させるべきであると考えるのです。








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