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火曜日

西洋の思想




エピクロス主義について


 火曜日は西洋の思想の日です。今日の題は、エピクロス主義について、です。エピクロスという人は、古代の西洋で活動を行っていたということです。
 エピクロスは、どのような活動を行っていたのでしょうか。それは、自分で学校を開いて、生徒を集めて授業を行っていたということです。エピクロスは、授業料を自分に寄付するように求めていました。「自分の学校のために寄付をして下さい」ということです。エピクロスは学校の校長だったのです。そしてエピクロスは生涯、質素に暮らしていたということです。エピクロスが人々に求める寄付の金額は少なかったのです。エピクロスは、自分に多くの寄付が寄せられることを断っていたのです。エピクロスは人々に寄付を求めていたのではあるけれども、しかしその金額は少なかったのです。なぜ、エピクロスが求める寄付の金額は少なかったのでしょうか。たくさんの寄付金を集めれば、それだけ豪華な暮らしができるのではないでしょうか。寄付を少なく集めるよりも、寄付を多く集めた方が、人生をより幸福に過ごすことができるのではないでしょうか。エピクロスは、何が目的で、寄付を少なく集めていたのでしょうか。
 それは、エピクロスの苦悩を減らすためであったと考えられるのです。寄付金を多く集めるよりも、寄付金を少なく集めた場合の方が、エピクロスの苦悩が減るということです。寄付金が多く集まれば集まるほど、それに伴って、エピクロスの苦悩も多くなるものと考えられるのです。そのため、エピクロスから考えれば、自分に寄せられる寄付の金額は、なるべく少ない方が望ましいのです。寄付が少なければ、悩みも少ないのです。エピクロスにとっては、苦痛をできる限り避けたいのです。苦悩も苦痛を生じさせるものです。それはエピクロスの生き方の主義なのです。エピクロスは、自分が味わう苦痛を最小限に抑えたいのです。
 例えば、寄付金を多く集めた場合、どのようなことが起こり得るのでしょうか。それはつまり、富と名誉を得るということです。エピクロスは、自分が富と名誉を得た場合、苦痛を感じると考えるのです。例えば、お金を多く持っていれば、強盗に会って、「金を出せ」と、脅されるかもしれません。それは危険です。また、寄付を多く集めれば、その分、エピクロスへの人々の期待が高まるものです。人々は、寄付を多く払った分だけのものを、エピクロスに期待するのです。そしてエピクロスは、人々の、自分への期待に答えなければなりません。人々は、自分の期待が裏切られることになれば、怒りを感じるのです。人々に怒られないために、エピクロスは人々の期待には答えなければなりません。つまり、人々の自分への期待は、何らかの原因があれば、自分への怒りとなって襲いかかるものなのです。期待と怒りとは、両者は身近な関係にあるのです。「民衆の怒り」というものは、非常に怖いものです。もしも、その「民衆の怒り」が、自分に向かうことになれば、エピクロスの生活は、幸福な生活とは程遠いものとなります。
 そして、エピクロスに人々の期待が多く寄せられれば、エピクロスはその期待に答えるため、エピクロスの活動が激しくなります。エピクロスの仕事が忙しくなるのです。エピクロスは盛んに働かなければなりません。しかし、エピクロスにとっては、重労働は幸福ではないのです。重労働は苦痛が多いのです。エピクロスの主義としては、苦痛をなるべく減らさなければなりません。仕事を選ぶのなら、重労働の仕事よりも、軽作業の仕事だということです。つまり、寄付金を多く集めれば、それだけ重労働の仕事になるのです。寄付金が少なければ、その分、人々の期待が少なくなるので、軽作業の仕事になるのです。
 エピクロスの生き方というものは、合理的なのです。エピクロスは、合理的に物事を考えて、自分の主義に合う生き方をするのです。エピクロスには判断力があるのです。そのエピクロスの判断力というものは、落ち着いたものです。エピクロスは、物事を「動的」と「静的」とに分けて考えます。そしてエピクロスは、常に、「静的」な対象を選びます。エピクロスは、静かな人生を望むのです。エピクロスが幸福と考える人生とは、静かで落ち着いた人生なのです。そして、そのような静かな人生を、自分で選び取らなければなりません。でたらめに生きていては、静かな生活はできません。静かな生活を得るためには、自分の理性を使って、自分で判断するようでなければなりません。
 つまり、エピクロスは、感情だけで行動していたのではないのです。理性的な判断の上で、苦痛を避ける行動をとっていたのです。自分の主義を通すためには、感情だけに身を委ねることは禁物だということです。それほど簡単には、エピクロス主義の人生を歩めるものではありません。判断すべきことは判断しなければなりません。選ぶべきものは選び、そして避けるべきものは避けなければなりません。自分で物事の対処をするのです。その対処のためには、冷静な判断力が必要なのです。そのような冷静な判断力がなければ、エピクロス主義の人生を成功させることはできません。
 つまり、苦痛を避けたいからと言って、感情的に苦痛から逃げ回ってさえいれば、それでエピクロス主義の人生であることにはならないのです。苦痛を避けるにあたっては、目先の苦痛だけにとらわれてはなりません。将来、自分に起こり得る苦痛まで考えた上で、今の目の前にある苦痛に対処しなければなりません。目の前にある苦痛を避けることで、将来、その苦痛よりも多くの苦痛を味わうことが予測されれば、その時は、今の目の前の苦痛を選ぶ必要もあるのです。今の目の前の苦痛のことだけではなくて、将来に起こる苦痛のことまで考えるのです。自分に起こる苦痛を比較できる判断力が必要なのです。苦痛にも、小さな苦痛から、大きな苦痛まであります。そしてまた、自分の人生にも、現在と未来とがあります。現在の小さな苦痛を避ければ、将来は大きな苦痛を味わうことになる場合や、現在の大きな苦痛を味わえば、将来は小さな苦痛で済む場合や、現在の大きな苦痛を味わったとしても、将来も大きな苦痛であり続ける場合などが考えられます。エピクロスは苦痛を避けるために、理性的に判断するのです。








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