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水曜日

東洋の倫理・道徳




『淮南子』の修身について


 水曜日は、東洋の倫理・道徳の日です。今日は、『淮南子(えなんじ)』の修身について考えます。『淮南子』は、中国の前漢時代に、淮南王(わいなんおう)が、学者たちと編集した、有名な書物です。
 『淮南子』には、「人の生き方」というものが書かれています。人間の生きるべき道というものについて、説明されているのです。それはつまり、修身です。人間はどのように、人生を歩むべきであるのかを、説明するのです。修身の方法です。修身の方法も、説明されなければ、分からないものです。天才であれば、自分で修身の方法を発見できるのかもしれません。しかし、凡人には、どのように修身を行うべきであるのかについては、自分では良案を考えられないものです。そのため、凡人は、過去に天才が発見した修身の方法を理解して、それを見習うことにするのです。
 『淮南子』の人間の修身論では、人間と自然世界との関わりを重視します。その『淮南子』の修身論は、老子、荘子の教説と、大体同じものです。つまり、人間は、天然の自然に合った生き方を目指すべきである、と考えるのです。人間の住む世界と、自然の動植物たちが生息する世界とを、別々に考えてはならないのです。それは、人間の中の、野生動物としての部分を大切にする考え方であるのかもしれません。『淮南子』では、人間に、天然の生き方というものを推薦するのです。しかしそれは、人間に、人間社会から飛び出して、山野の中で、体一つで生活するべきことを主張するものでもないと考えられます。人間の理想の生活として、山野の中で野生動物のように暮らすことの必要性を、『淮南子』は説いているわけでもありません。人間社会の中で、天然の自然の生き方を目指すのです。それは、最初から、矛盾が存在する話であるのかもしれません。人間社会の中に生きながら、野生動物として生きなければならない、ということです。それは、無理なことを言っているのかもしれません。しかし、そのように、難しいことであると考えられるため、修身としての意義があるのです。修身には、多少の困難があることを覚悟しなければならないのです。つまり、人間社会の中で生きる自分と、自然世界の中で生きる存在としての自分との、摩擦の間で悩みながら修身をするのです。
 『淮南子』の人間の修身論については、根拠が考えられているわけです。人間の行う修身にも、理由がなければ納得することはできないのです。「なぜ、そのような修身方法であるのか」という問題に、答える必要があるのです。『淮南子』では、人間の修身の根拠として、自然を大事に考えています。『淮南子』の人間の修身方法の根拠には、自然が大切にされているのです。人間の修身を、自然から考えるのです。自然が基本であるとする修身論なのです。現代においても、人間の人生を自然に根拠付けて考えることは、幅広く行われています。それは、自然主義の考え方です。『淮南子』の修身方法も、自然主義の考え方なのです。人間の生きる根拠には、大自然の存在を考えるのです。それは、『淮南子』や、老子、荘子だけの独特な考え方ではないのかもしれません。自然主義の考え方は、ごく一般的な人々も考えている人生論であるのかもしれません。
 『淮南子』では、善と悪とについて、まず考えるのです。人間の生きるべき道は、善の方向でなければなりません。人間は、悪い道を歩むべきではないのです。では、人間にとって、善の道とは、どのような道であるのでしょうか。それを『淮南子』では、自然であると考えるのです。自然こそが善であり、そして自然に反すれば反するほど、悪であると考えるのです。『淮南子』は、自然状態は善であったと考えるわけです。それは、人間の状態についても当てはまることです。人間の性質、品性というものも、自然状態の人間であれば、完全に善であるのです。人間にとっての完全な善である状態とは、自然状態であると、淮南子は考えるのです。そのため、人間は、自然状態に接近して生きるべきなのです。自然に近い人生が、人間の目標とするべき、善の人生なのです。そして逆に、自然から離れると、悪い人生になるのです。つまり、自然から離れてはならないのです。そこで、『淮南子』の考えでは、自然の近くに寄る以上に、自然と合一することを考えるのです。人間と自然とが、一体となるべきであると考えるのです。天人合一です。常に人間は、天人合一の境地で生きるべきであると『淮南子』は考えるのです。それが、人間の修身上の目標であるのです。つまり、人間の完全な善の状態を目指すのです。人間の完全な善の状態を、自然と一体となることによって、達成するのです。
 『淮南子』は、人間の本来の性質を、善なるものと考えます。『淮南子』は、人間性善説の主張であるのです。人間は、自然の状態の姿であれば、善である存在なのです。人間は生まれた時には、善であった、ということです。『淮南子』では、人間は生まれた時から悪い存在であるとは、考えないわけです。人間は、赤ん坊の頃は、悪の性質を持っていないのです。では、なぜ、そのような人間が悪い行動をとるのでしょうか。
 それは、『淮南子』では、人間の気持ちが外に向かうからであると考えています。人間は、善なる存在である、ということです。そのような、善なる存在の人間は、そのままの状態であれば、善であると考えるわけです。つまり、自分の外にあるものを、欲しいと思わなければ、人間は悪にはならないのです。人間が悪になる原因は、欲望を抱くからなのです。人間は、持って生まれて来たものだけに満足すれば、それで完全な善である存在というわけです。人間には、それ以上、付け加えるものはないのです。人間には、何か付け加えるよりも、何も付け加えない方が善である、ということです。人間は、余計なものを欲しがると、悪になるのです。
 つまり、『淮南子』の難しい修身とは、欲望を抑えなさい、ということです。その、「欲望を抑える」というのは、自分の外にあるものを欲しがる気持ちを抑えなさい、ということです。『淮南子』では、人間の心に、静の心と、動の心とがあると分類します。静の心については、『淮南子』は善であると考えます。しかし、動の心は悪であると考えるのです。欲望の対象となるものを求めて、心が動き出せば、人間は悪の存在になるのです。そのため、人間の修身で気を付けるべきことは、人間の心を外に向けて欲望を抱いてはならない、ということです。今、自分が持っているもので満足することです。自分が本来持っているものに満足できれば、それで、既に善なる状態は達成しているのです。つまり、今のありのままの自分を大切にしなさい、ということです。自分の外にある、金銀財宝よりも、自然状態の自分の方が、価値があるのです。人間社会の中で生きながら、人間社会の中にある、様々な欲望の対象を追求せずに、自然状態の本来の自分を守り続ける姿勢です。








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