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月曜日

日本の思想




貝原益軒『大和俗訓』自序について


 月曜日は、日本の思想です。今日の題は、貝原益軒『大和俗訓』自序について、です。
 貝原益軒の、『大和俗訓』の自序は、本の「まえがき」にあたる部分であり、これからの内容に入る前に書いてある部分です。『大和俗訓』の内容がどのようなものなのかは、私はまだ知りません。機会があれば、読んでみたいものです。私が読んだ部分は、貝原益軒『大和俗訓』の、自序の部分です。
 貝原益軒は、儒教をよく勉強した人です。儒教、朱子学の、先生であった人です。そのために、『大和俗訓』自序の部分でも、儒教を、賞賛しているのです。
 まず、貝原益軒は、儒教からは、大自然の法則と、人間の生きる道とを教わることができる、と、説いています。儒教は、大自然の法則が明らかにされているということです。儒教は、天地万物、一切の道理が示されているらしいのです。そしてまた、自然の法則だけではなく、人間の生き方についても、儒教には明示されているということなのです。そのような儒教の教えを、少しでも日本の人々に伝えることができれば嬉しいものであるとして、貝原益軒は『大和俗訓』を書くのです。
 貝原益軒はその時、八十歳であると語っています。八十歳という年齢は、私には想像のできない年齢です。大体、私の考える、八十歳の人というものは、老人介護センターの中で、ゲートボールを楽しんでいるものだ、というようなイメージがあります。つまり、社会に参加しようなどという、気力は、衰えてしまっているものだというイメージです。今の日本社会では、六十歳ぐらいの人でも、社会参加への気力の衰えた人もいるものなのです。そして、もっと若い世代の人からでも、社会参加への気力の衰えてしまっている人を見つけられないこともないのです。それが、八十歳にもなったとしたら、どのようなことになるのでしょうか。社会の事などには関心を持たないで、自分の趣味の世界に生きるようになることも考えられます。文字も書けないようになっているのかもしれません。それが、儒教を勉強すれば、八十歳になっても、つまり、「人の道」を生きることができるのです。貝原益軒は、八十歳になっても、人の道を踏み外すことなく生きているのです。ただ長生きするだけではなく、人間らしい生き方ができているのです。貝原益軒は、身をもって、儒教の正しさを証明しているのです。生き証人です。儒教、朱子学を、若い頃からよく勉強して身に付ければ、八十歳になっても、まだ、人間として現役で活躍することができるものだということを証明しているのです。
 それが逆に、貝原益軒が、もし、儒教、朱子学を勉強することなく、八十歳になったとしたら、どのようなことになるでしょうか。そもそも、八十歳まで生きられなかったのかもしれません。七十歳ぐらいで、人間として生きる気力を失って、生活への活力、情熱というものを失い、老衰してしまったかもしれません。もしくは、五十歳ぐらいで、人の道を踏み外すような行為、犯罪を行い、島流しの刑に処せられているかもしれません。八十歳で文字を書くことができ、その上、社会参加の意欲をも持ち合わせているということは、驚くべきことかもしれません。それが、儒教の教えの持つ、偉大な力だということかもしれません。しかし、それは儒教だけが特別に持つ力ではなく、仏教でも、キリスト教でも、「人の生きるべき道」を熱心に勉強していれば、八十歳になっても、人間らしく生きられるのかもしれません。
 儒教には、大自然の法則に従った、人間の生きるべき道が説明されているということです。そのような、スケールの大きい、偉大な教えだからこそ、興味も次々に湧いて出てくるのかもしれません。それだからこそ、八十歳になっても、尽きることのない探究心を、貝原益軒は持ち続けられたのかもしれません。それが、検定の資格を取るための勉強だとか、受験勉強のような、点数を十点、十五点上げることが目的の勉強だったとしたら、貝原益軒も、すぐに学問への興味などは失ってしまっていたのかもしれません。儒教という学問が、学んでも学んでも、まだ理解できない所がある学問だからこそ、貝原益軒も、いつまでも飽きることなく儒教を勉強していたのかもしれません。
 きりがない、ということです。全てを完全に身に付けようとすると、きりがないのです。終わることがないということです。追求して行けば、次々に、新しい発見があったりするのです。さらなる自然の奥深さを知ることができたりするのです。そのために、八十歳の人間になっても、まだまだ進化し続けられる、というわけです。つまり、謙虚な姿勢でいられる、ということです。謙虚な姿勢、というものは、自分がまだ、人間として完全なものではない、ということを自分で自覚している気持ちから出るのです。そして、謙虚な姿勢を持っていられるからこそ、人間の完成を目指して、努力できるのです。発展があるということです。
 それは確かに、困難なことです。楽しいことばかりではありません。簡単なことではないでしょう。勉強しても、勉強しても、その次にまだ終わることなく、勉強する事があるのです。そこから、逃げ出したい気持ちになるのも当然というものです。しかしそれは、人間として生きることを、自ら放棄してしまった事と同じなのです。勉強をやめてしまったら、やがて、野山に暮らす、猿のような動物になってしまうのです。








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