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火曜日

西洋の思想




ディドロの唯物論について


 火曜日は、西洋の思想の日です。今日の題は、ディドロの唯物論について、です。ディドロは、近代の西洋において活躍した有名な人物です。
 ディドロは唯物論の考え方を主張します。ディドロの唯物論は、物質の運動の問題から、人間の意識の問題まで説明します。ディドロの唯物論は体系的なのです。ディドロの唯物論は、人間も含めた世界全体を説明します。唯物論では、人間の意識の問題を説明しないこともあります。しかし、ディドロの唯物論では、人間の意識の問題まで物質から説明しています。物質だけで説明できるものは、人間から離れた世界だけではないとディドロは考えるのです。ディドロの唯物論では、人間から離れた世界を説明すると同時に、人間自身も説明できるのです。
 ディドロの唯物論は、科学的であり、物質的な説です。ディドロの唯物論は、人間から離れた世界に対しては、小さな物質の存在から、宇宙全体の構成まで、物質によって説明します。物質によって、宇宙全体が構成されているとディドロは考えます。ディドロは、物質以外の存在を考えません。ディドロは、物質によって宇宙全体の世界を考えます。ディドロの主張は、科学的な内容です。ディドロの主張では、物質の外には何も存在しないと考えます。宇宙全体が物質です。そのため、宇宙の外には何も存在しないと考えます。宇宙の外に何かあると考えれば、物質以外の存在を認めることになります。ディドロは唯物論を主張するので、物質以外の存在を認めることはできません。物質以外の存在が、宇宙の外にあると考えれば、観念論に陥ります。ディドロは、観念論を拒否します。観念論は科学的ではありません。ディドロは科学的な態度を持っているので、実験と観察を重視します。観念論は、実験と観察を行わずに、自分の独断と偏見で真実を決定しています。観念論は間違っているとディドロは考えます。ディドロの唯物論は、科学的です。宇宙の外に、宇宙以外の存在を考えれば、観念論です。つまり、宇宙以外の世界をディドロは考えないのです。観念論を主張する人物は、宇宙以外の世界を考えます。宇宙以外の世界を考える説には、根拠がありません。ディドロは、根拠のない観念論の主張を退けます。
 宇宙全体の構成は、物質の存在によって説明し尽くすことができます。唯物論における問題点は、生命体に対する説明です。宇宙全体の中には、生命体が存在しています。宇宙全体を考えるのであれば、生命体の存在も考えなければなりません。また、人間も生命体として宇宙の中で生きています。人間の場合、意識があります。唯物論は、人間の意識も説明することができるのでしょうか。唯物論の問題は、生命体と、生命体が持つ意識とを説明することです。宇宙全体の中には、当然、生命体と、生命体の意識とが存在していると考えられます。つまり、唯物論者は、自分の内面をどのように考えるのか、ということです。唯物論者は、自分以外の存在に対してであれば、物質で構成されていると平気で考えるものです。しかし、唯物論者は、自分自身の存在に対しては、物質で構成されているとは考えない場合があります。唯物論者は、自分の存在を除外した上で、唯物論を主張するのです。そのような唯物論では、説得力がありません。唯物論を首尾一貫させるのであれば、自分自身に対しても、唯物論を適用するべきです。ディドロの唯物論では、生命体と、生命体の意識とに対する説明も考えられています。宇宙全体の中に生きる生命体も、唯物論によってディドロは説明できると考えます。
 ディドロの主張では、どのような物質も、感性を持っていると考えます。感性とは、感じる性質です。ディドロは、物質内部の、分子の運動を考えます。物質の内部では、分子が運動しています。そのため、全ての物質は、感性を持っていると結論付けられるのです。ディドロの唯物論では、物質内部における、分子の運動の説が重要な部分です。つまり、ディドロの主張では、物質自身で動くことが可能なのです。物質は、物質だけで動いているのです。その考え方によって、宇宙の外に宇宙以外の存在を考える観念論を退けることができるのです。ディドロは、物質の外に、物質以外の存在を考えないのです。宇宙は、自分自身の力だけで動くことが可能であると考えるべきです。宇宙が、宇宙以外の存在から動かされていると考えてはなりません。宇宙以外の存在が、宇宙を動かしているのではありません。そして、宇宙は物質です。そのため、物質は物質自身で動くと考えなければ、ディドロの唯物論は成立しないのです。物質である宇宙は、宇宙自身で動くことができるのです。そして、全ての物質も、物質自身で動くことができます。ディドロは、全ての物質は動いていると考えます。どのような物質も、物質内部においては、分子運動を行っています。物質の感性は、物質内部の分子運動から、当然考えられることです。物質は、その内部で分子が運動しているので、感性を持っているのです。ディドロは、物質の自立運動を考えるのです。
 物質の自立運動から、生命体の誕生をディドロは考えます。一般的には、物質と生命体とは、異なる存在であると考えられています。しかし、ディドロは、物質の延長線上に生命体を考えます。物質と生命体とを、ディドロは全然別の存在であるとは考えないのです。物質と生命体とは、近い関係にあります。ディドロは、生命体を、物質の変化したものであると考えます。物質は、静止物であっても、内部では分子運動を行っています。つまり、静止物であっても、止まることなく変化し続けているのです。変化があれば、静止物は、将来、生命体となる可能性を持っていると考えられます。あらゆる物質は、内部では運動を行い、変化し続けています。物質は、全く同じ状態で存在し続けるのではありません。物質は、絶え間なく変化しています。そして、物質の変化から、生命体が誕生することになります。しかし、生命体と物質とは異なる存在ではなく、生命体も物質であると考えられます。生命体は物質なのです。
 物質の内部運動による、物質の変化によって、生命体が誕生します。生命体の意識は、物質の持つ感性と同様のものです。物質は感性を持っています。生命体の意識は、物質の持つ感性の積み重ねの結果出来上がるものです。生命体は、感性によって、感じ続けた結果、意識が段々と構成されるのです。物質の感性の集合体が意識なのです。人間の思考能力も、出発点は物質の感性です。感性を積み重ねることによって、人間の思考能力が出来上がります。そして、人間の思考能力には、反省する能力があります。反省する能力から、人間は科学を発展させることができます。ディドロの唯物論は、人類の科学の発展を願うのです。物質としての生命体である人間は、意識を持って、科学を発展させるのです。ディドロの唯物論には、科学を大切に考える精神があります。唯物論であるのにも関わらず、ディドロは精神論を唱えるのです。ディドロの唯物論には、人類の科学の発展を重視する姿勢があります。
 ディドロの唯物論は、物質を生命のように扱っています。物質と生命との境界線を考える際には、ディドロの唯物論が参考になります。生命体に対してであれば、一般的に、変化し続ける存在であると認知されています。しかし、静止物に対しては、一般的には、変化を疑問視します。静止物には、変化を認めないのです。ディドロの場合は、全ての物質に自己運動を考えています。そして、ディドロは全ての物質に感性も認めています。一般的には、生命体だけが感性を持っていると考えるものです。つまり、一般人は、物質は苦痛を感じないものであると考えているわけです。物質は痛みを感じないので、物質をどのように扱おうとも構わないと、一般人は考えています。しかし、ディドロの説に従えば、物質も、生命体と同じように感性を持っているので、物質は何かを感じているものと考えられます。








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