火曜日
西洋の思想
デカルトの「考える私」について
火曜日は西洋の思想について考える日です。今日は、デカルトの「考える私」について、という題です。デカルトは、近代の西洋思想に大きな影響を与えた人です。
デカルトの、「考える私」というものは、自分について、肉体と、精神とを、分けて考えろ、ということです。人間の肉体などというものは、肉体だけを見て考えれば、機械と同じだということです。人間以外の動物は、物理学の法則に従って動いている、機械の巧妙なものだという話です。ニュートンの万有引力の法則の下に運動しているのです。そのような、機械の動きは、物理学と数学の計算で、解明できるという考えです。そして、人間の肉体についても、肉体だけを考えれば、動物機械と同じものだということです。そして、デカルトの「考える私」というものは、そのような、物理的な自然法則に従う肉体とは、一切関係のない、精神としての、「私」なのです。デカルトの、「考える私」の、「私」という言葉の中には、「私の体」は入っていないのです。「私の体」は、物質であり、「考える私」は、精神なのです。物質と精神とは異なるものなのです。物心二元論です。物と心とは違うのです。心というものは、精神であり、魂のことなのです。精神、魂が「考える私」なのです。それは物質ではありません。物質と精神とは性質が異なります。物質は、すぐに滅び去るものです。物質には、永遠性がありません。目に見えるもの、手に取れるもの、形あるもの、そのような物質は、やがて消えてしまうのです。しかし、精神としての、「考える私」は、物質としての性質を持つ、「私の体」とは、異なります。「私の体」、肉体は、確かに、やがて消滅してしまうわけです。それは物質としての性質上、当然考えられることです。しかし、精神、魂としての「考える私」が、消滅するなどということは、考えられないことだと、デカルトは説くのです。霊魂の不滅だというわけです。物質の世界は確かに、ニュートンの自然科学の法則に従います。しかし、精神の世界は、物理学の方程式を当てはめることはできないのです。物と精神とは、それぞれ関わり合うことなく、別々に存在している、ということです。デカルトの「考える私」とは、精神としての存在なのです。その「考える私」には、物質的なものは一切含まれてはいないものです。「考える私」と、物質的なものとは、全然関わり合いを持たないものであり、交渉も持たないものだということです。
このような、物質的な自然世界と、そして自分の肉体からとも、一切関係が切り離されて存在するという、デカルトの「考える私」には、どのような問題を考えることができるのでしょうか。
まず、そのような「考える私」では、自分の体を動かすことはできないのではないか、という問題です。精神と物質とは、両者は関係を持つことはないということです。その通りであるとすれば、精神としての「考える私」と、物質としての「私の体」とは、関係を持たないことになります。関係を持たないのであれば、「考える私」は、「私の体」を動かすことはできないはずです。「考える私」は、「私の体」を、どのように動かしているのでしょうか。「私の体」は、「考える私」とは関係なく、勝手に動いているというのなら、デカルトの主張も正しいというわけです。もしそれが正しければ、「考える私」が「私の体」に影響を与えることができない代わりに、「私の体」からも、「考える私」に影響を与えることはできない、という考えにもつながるわけです。つまり、どれだけ自分の体の状態が悪くなったとしても、「考える私」の存在は、清純で美しいままであるとの意見も言えるのです。体は六十歳でも、心は十五歳だよ、というようなことです。そしてまた、肉体と精神とは全然関わり合いがないからこそ、自分の肉体が滅びたとしても、その自分の肉体とは全然関係なく、自分の精神、心、魂は存在し続けられる、ということです。しかし、自分の肉体と「考える私」とは、全然関わり合いがないとすれば、「考える私」は、「私の体」を動かすことができないのです。「私の体」からの、悪い影響は「考える私」とは関係がない、と考えておきながら、「私の体」への、「考える私」の支配関係は認めている、という考えです。それは少し、都合の良い考え方かもしれないというわけです。つまりそれは、管理者側の、都合の良い考え方だということです。自分が管理している人たちが悪い状態になったとしても、「管理者である私とは一切関係はない」と主張するようなものです。「私が管理している人たちが全員死んだとしても、私だけは永遠に生き続けるのだ」というような主張です。つまり、「私の体」からは「考える私」に影響を与えられないものだとすれば、逆に、「考える私」からも、「私の体」に影響を与えることはできないのではないか、という問題です。
「私の体」と、「考える私」とは、一方通行の関係になっているのでしょうか。つまり、「考える私」は「私の体」を自由に動かすことはできるけれども、しかし、「私の体」は「考える私」を動かすことはできないのだ、という考えです。「考える私」は、「私の体」を意のままに滅ぼすことはできる。しかし、「私の体」からの影響は「考える私」には無いので、「考える私」は滅びることは無い、ということでしょうか。精神は体を動かすことができても、体は精神を動かすことはできない、というわけです。しかし、そのような考え方をするのであっても、精神は肉体を捨てているようなものです。「それほど肉体と関わり合うのが嫌であるのなら、肉体を捨てて、精神だけで、一人でどこか出て行けよ」という感想です。それは、現実世界を見捨てるような考えにも思えます。
当ホームページ内の文章の引用・転載を禁止します。(C)matsui genemon.