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月曜日

日本の思想




伊達政宗という人物について


 月曜日は、日本の思想の日です。今日は、伊達政宗という人物について考えます。伊達政宗という人物は、豊臣秀吉の時代から、徳川幕府の時代まで生きた大名です。伊達政宗は、徳川家康の天下統一の事業にも関わりました。
 伊達政宗という人物は、戦国時代の武将でもあった人です。徳川幕府の時代からは、戦の起こらない時代となるのですが、しかし、豊臣秀吉の時代には、全国各地で、武将たちが戦陣を構えていたのです。伊達政宗も、豊臣秀吉の時代には、武将たちとの合戦をくぐり抜けて戦ったのです。伊達政宗は、そのため、戦国武将としての人柄の面があると考えられます。それは、大変、厳しい人柄です。
 戦国時代には、豊臣秀吉と、徳川家康とが、天下統一のために、両陣営で睨み合っていたのです。国内の情勢が不安定だったのです。そのような不安定な時代の中で、伊達政宗は、大名としての名前が全国に広まっているのです。そのような大名の伊達政宗は、天下統一の騒動に、巻き込まれることは必然的なことです。全国の大名は、天下統一の騒動に関わらざるを得ないのです。全国の大名たちは、自分がどこの大名の仲間であるのかを宣言して、立場を決めなければなりません。天下統一のためには、勢力争いが起こるのです。そのために、大名同士の結び付きの勢力についての、情報が必要なのです。情報を入手して、戦略を立てなければなりません。大名も、一つの家、一つの藩で天下統一を目指すのではありません。大名同士で手を結び、そして、協力して勢力を築くのです。徳川家康も、徳川家の力だけで全国を統一するのではありません。徳川家康は、全国の大名たちの勢力を集めたのです。そして、豊臣秀吉も、諸大名の勢力を集めるのです。そのため、全国各地の諸大名たちは、自分がどの勢力と手を結ぶのかを決めなければなりません。伊達政宗も、大名として、自分の立場を考えなければなりません。
 伊達政宗は、自分の藩を潰してはなりません。そのため、将来性のある大名仲間たちと、伊達政宗は手を結ばなければなりません。将来性を読み取るのです。時代の変化の状況に対応するのです。全国の世の中の動きを考えるのです。もしも、伊達政宗の、世の中の情勢についての判断が間違っていれば、伊達政宗は、将来性のない大名たちと、仲間同士の関係を作るのかもしれません。その結果、伊達政宗の家は、取り壊されてしまいます。時代は、天下の変動の時代です。自分たちの藩だけのことを考えていれば、安泰なのではありません。自分たち以外の藩の動き方も見極めなければなりません。そして、藩同士の同盟関係を考えるのです。そのためには、情報を読み取る力がなければなりません。伊達政宗の場合は、豊臣秀吉と、徳川家康とが争い合う時代に生きるのです。伊達政宗は、豊臣秀吉とも、徳川家康とも、知り合いの仲です。そのような状況の中で、伊達政宗は、将来のことを考えるのです。豊臣秀吉とも、徳川家康とも、どちらとも、友好親善関係を結ぶことができれば、言うことはありません。しかし、大名としての立場を決めなければなりません。伊達政宗は、どの勢力に加わるのかが問題です。時代の変化が予測できなければ、自分の藩を潰すことになります。しかし、どちらか一方の勢力に、軽々しくは、仲間同士の関係を作ることはできないのです。
 豊臣秀吉か、徳川家康か、どちらかを選べば、それで万全であるとも考えられないのです。なぜなら、両者の中から、片方を選べば、片方の敵となるからです。味方を作れば、敵もできるのです。味方の数だけ、敵の数も多くなるのです。仲間を作れば、敵も作ることになると、考えられるのです。徳川家康の仲間になることを決めれば、その時は、豊臣秀吉と、豊臣秀吉の仲間の関係にある大名たちと、敵対することになるのです。その点が難しい部分なのです。できれば、仲間だけの数を増やしたいと思うものです。敵の数は、少しでも減らさなければなりません。そこで、敵の数を減らすために、味方の数を減らすことも、手段として考えられるのです。それは、味方を作らなければ、敵も作ることはない、という考え方です。つまり、どちらの味方にも、どちらの敵にもならない、という態度です。ある片方の味方になれば、もう片方の敵となるのです。それを避けるのです。
 現代の世の中でも、決断をあいまいにする場面は多いものです。単純に物事を決められない、ということです。自分が、どこの味方になるのかについて、判断をあいまいにするのです。味方とも言えない、そして、敵であるとも言えない、という状態です。両方とも自分の味方にする考えは、都合の良い考えです。「二兎を追う者は、一兎をも得ず」ということです。どちらか一方を選択しなければならないのです。しかし、世の中の多くの人々は、選択の結果を恐れる人が多いのです。そこで、はっきりとした態度を示さないのです。仲間を作りたいとは思うのです。しかし、仲間を作るのと同時に、敵を作る結果も予想するのです。仲間の存在は心強いのですが、しかし、敵の存在が心配です。伊達政宗も、敵の存在には用心しなければなりません。現代人であっても、敵の存在には用心するものです。そして、判断が鈍るのです。それは、決断力がないとも考えられるのかもしれません。伊達政宗の場合も、決断力がなかったように考えられるのかもしれません。
 しかし、伊達政宗は、天下の変動の時代を、自分の決断によって、乗り越えたのです。伊達政宗は、戦国時代を生き抜いたのです。戦国時代の大名から、徳川時代の大名へと、生き残ることができたのです。その点では、伊達政宗の判断は間違ってはいなかったのです。時代の情勢についての判断が正しかったのです。伊達政宗は、もしも判断を間違えれば、戦国時代の中で、命を落としていたのかもしれないのです。どこの勢力の仲間になり、そして、どこの勢力を敵にまわすのか、という、命懸けの選択をするのです。戦をする、ということは、敵が存在する、ということです。しかし、敵を作れば、自分の命が危険になるのです。その上で、伊達政宗は、敵を作り、そして戦をして、時代の変動を乗り越えるのです。
 伊達政宗は、最後まで、敵を作ることには慎重であったと考えられます。最後、という言葉の内容は、戦をする、ということです。つまり、戦を決断するまでは、敵対宣言を控えるのです。敵対宣言をすれば、どちらかが、滅亡することになります。そのため、開戦には慎重になるのです。開戦間近になるまで、味方の態度をとるのです。仲間同士の姿勢を見せるのです。そして、時機を伺うのです。仲間同士の態度をとる間に、情勢を見極めるのです。本当に、仲間同士の関係として、手を結ぶのかどうかを考えるのです。仲間になることが、果たして、将来性のあることかどうかを、真剣に考えなければなりません。伊達政宗も、決断力がないように見えて、しっかり考えているのです。なかなか決断はできないのかもしれません。しかし、一度決断を下せば、どちらか一方が滅亡するまで進んでしまうのです。そのため、最後まで、味方同士の態度をとりながら、その間に、決断の機会を考えるのです。時代の変化の中で、将来が分からないので、簡単には決断を下さないのです。








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