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木曜日

東洋の思想




中国の清朝時代について


 木曜日は、東洋の思想の日です。今日は、中国の清朝時代について考えます。中国の清朝時代は、日本では江戸時代と明治時代の年代に当たります。
 中国の清朝時代は、西洋文化の影響を受けました。西洋文化は、論理的な学風が強くあります。東洋文化は、感情的な文化の傾向があります。西洋文化の場合は、知性的な面を重視する文化なのです。西洋の学問の風潮は、知性的なものです。そしてまた、西洋の文化は、知性的、論理的な態度であると共に、キリスト教の文化でもあります。つまり、西洋の文化は、科学主義と、キリスト教主義の風潮が強い文化であると考えられるのです。そのような西洋文化が、中国の清朝時代の文化に、影響を与えるのです。西洋文化の影響は、江戸時代の日本においても、見られるものです。中国の清の時代の頃は、西洋文化が、東洋文化全体に影響を与えていたのです。中国も日本も、西洋文化を摂取する時代だったのです。
 西洋の文化は、科学的でもあり、キリスト教的でもあるわけです。科学的である部分の西洋文化は、人間の感情を抜きにした話を進めるものです。キリスト教的な部分の西洋文化は、感情的な問題の文化です。つまり、西洋の文化は、科学的な考え方の態度を持ちながら、キリスト教を信仰する文化であると考えられるのです。
 西洋文化の、科学的な態度は、数学の証明問題を考えるような態度です。西洋文化では、数学が発達していたのです。数学が発達する背景には、論理的な考え方をする文化が、必要不可欠です。数学が発達する文化は、知性を重視する文化なのです。そして、その文化は、相手の感情に訴える説得の仕方を、重視しない文化です。その文化は、感情的な説明を重視するのではなくて、知性的、論証的な説明を重視する傾向があります。証明の技術が発達した文化です。説明のためには、数学の計算問題を解くような態度が要求される文化なのです。そのような文化は、東洋的な文化ではありません。東洋の文化は、計算問題を苦手とする文化です。東洋人は、数学が得意ではない、ということです。それは、東洋人の能力の問題ではなくて、東洋の文化の問題です。東洋の文化が、数学を相手にしていなかったのです。そして、東洋の文化は、数学を避ける文化であると共に、論理的な態度をも避ける文化だったのです。それは、東洋の学問の態度です。東洋の学問の態度が、数学的な、論証的な態度を遠ざけていたのです。それは、東洋文化の、宗教的な態度です。大切なことは、言葉では説明ができないと、東洋文化は考えるのです。大切なことは、言葉では説明することができない、と考える態度であったので、東洋文化では、論証的態度が発達しなかったのです。東洋文化では、人間の知性よりも、宗教的な感情を大切に考えていたのです。
 しかし、西洋文化においても、宗教的な感情を大切にする面もあります。西洋文化では、キリスト教が発達していました。西洋の文化においても、宗教心を重視するわけです。西洋文化では、知性を重視しながら、宗教心も重視するのです。それは、西洋文化の学問の態度です。西洋においても、人間の知性と、人間の宗教心との問題は、重要なものであると考えられています。西洋の文化においても、知性的な学者が、宗教裁判で処刑される事件が発生しています。西洋文化の中で、教会の権力が大きなものであったことは、西洋人の宗教心が厚かったことの、証拠でもあります。西洋人も、宗教心が厚かったのです。西洋の文化が信じる宗教は、キリスト教です。中国の清の時代の西洋の文化では、科学よりも、キリスト教を重視する文化でした。中国の清の時代では、西洋文化では、科学の勢力と、キリスト教の勢力とがありました。しかし、科学の勢力よりも、キリスト教の勢力の方が大きかったのです。つまり、清の時代の中国に与えた西洋文化とは、キリスト教に対する宗教心のある、科学的な態度の文化だったのです。清の時代の中国は、西洋文化から、キリスト教と、科学の影響を強く受けたのです。
 西洋の文化は、キリスト教と科学の、大きく分けて二つの影響を、東洋の文化に与えたのです。清の時代は、約三百年続きました。その三百年の間に、西洋の文化は、変化するのです。清の時代の三百年の間、西洋のキリスト教は、常に同じキリスト教であったのではなく、また、三百年間、同じ科学でもなかったのです。清の時代の初期の西洋では、キリスト教の勢力の方が、科学の勢力よりも強かったのです。しかし、清の時代が進むにつれて、西洋の文化では、科学の勢力が増大するのです。西洋文化では、科学が発達するのです。そのため、清の時代の初期の頃は、西洋文化から、科学よりもキリスト教の影響を強く受けたと考えられるのです。そして、清の時代の中期と後期との時代に進めば、西洋の文化は、中国に、キリスト教よりも科学の影響を強く与えるようになったと考えられます。清の時代の、最初の頃は、西洋文化のキリスト教の影響を受け、そして、後半の時代では、西洋文化の科学の影響を、中国は強く受けたのです。西洋の文化は、清の時代の間に、変化します。そのため、与える影響が、前半と後半とでは異なるのです。
 もしも、西洋文化の影響が、キリスト教だけであれば、問題は、宗教問題に限定されるものです。しかし、西洋文化は、キリスト教文化に加えて、科学主義の態度も、中国に影響を与えるのです。宗教問題は、中国の長い歴史の中で、過去に経験したことのある事柄です。当時の中国の学界においても、宗教問題だけであれば、充分に対応できるだけの力があったと考えられます。西洋文化で相手となるものが、キリスト教だけであれば、難しい問題ではありません。宗教に対してであれば、中国の、学問の歴史の積み重ねで、対応できるものです。しかし、西洋文化の影響の、科学の部分が問題です。中国の歴史は長いのですが、しかし、科学の学問の積み重ねは、少ないのです。そのため、西洋文化の、キリスト教には対応できたとしても、科学には、中国文化では対応できないのです。日本での場合においても、中国と同様のことが考えられます。東洋全体が、西洋の科学の文化には対応できないのです。キリスト教文化だけであれば、東洋文化でも、対処することができると考えられます。キリスト教文化にも、歴史と伝統があるものです。そのような、歴史と伝統のある文化であれば、東洋文化においても、歴史と伝統の力によって対処することができるのです。しかし、科学の場合、歴史と伝統の力だけでは、対応することができないのです。中国の長い歴史の積み重ねがあれば、どのような事柄にも対応することができるだろうと、一般人であれば考えるものです。
 しかし、西洋の科学の文化には、中国の清の文化では、対処し切れなかったのです。対処することができない場合、乱れが発生します。学界の乱れと、国の乱れとが発生するわけです。国の文化が乱れるわけです。対処することができれば、国の文化には乱れは発生しません。しかし、相手となる西洋の文化は、キリスト教だけではなかったのです。東洋人は、科学が苦手だったのです。東洋人にとっては、科学の文化が手強いものだったのです。西洋の文化では、科学が発達していたのです。そのため、発達した西洋の科学の文化に、東洋文化は追いつかなければなりません。東洋文化の中の、宗教文化の部分であれば、特に、西洋文化を追いかける必要はありません。西洋文化の中の、科学文化の部分を、東洋文化は追いかける必要があるのです。中国の清朝時代では、現代にも通じる、西洋の科学の問題が発生したのです。








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