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木曜日

東洋の思想




中国の両漢時代について


 木曜日は、東洋の思想の日です。今日は、中国の両漢時代について考えます。中国の両漢時代は、前漢時代と、後漢時代とがあります。紀元前二百年頃から、紀元後二百年頃までの時代です。約四百年間続いた、中国の時代です。
 まず、漢の始まりの時代は、秦を滅亡させることで始まります。そのため、漢の始まりの時代は、秦の影響を大きく受けています。秦の時代の、漢への影響の問題は、秦の始皇帝に問題があります。秦の始皇帝が、万里の長城の工事や、焚書坑儒活動などを行ったりしたのです。秦の国民たちは、工事の作業のため、国に強制労働をさせられるのです。そして、秦の焚書坑儒活動によって、儒教の書物と、儒教の信者とが、国から追放されるのです。また、秦は法治主義国家として、法律を多く作っていました。それらの秦の政治が、国民の人々の反発を招いたのです。秦の政治は、国民の多くの人々を苦しめたのです。そのため、秦と同じような政治を、人々は漢に対して望まないのです。秦を滅亡させた以上は、秦と同じ政治を繰り返してはならないのです。秦と同じ政治では、人々に歓迎されないのです。そのような秦の政治の特色は、国のための厳しい法律が人々に課せられている政治です。秦の時代は、法律の厳しい時代だったのです。人々は、国の命令には絶対に従わなければならないのです。国の法律に違反すれば、刑罰が行われます。国は法律を作り、そして、刑罰を作るわけです。漢の時代の開始する頃は、そのような秦の政治体制から、離れた政治体制をとるのです。漢の開始する時代は、秦の政治を批判します。
 中国の政治には、道教主義の政治と、儒教主義の政治と、法治主義の政治とを考えることができます。秦の政治は、法治主義の政治でした。そのため、漢の時代では、道教主義の政治か、儒教主義の政治かを選ばなければなりません。法治主義の政治は、人々の反感を招くため、絶対に避けなければなりません。しかし、儒教主義の政治を選ぶことにも、問題がありました。そのため、漢の開始の時代には、道教主義の政治が行われます。漢の開始の時代は、道教が国に流行するのです。漢の開始の時代は、儒教ではなく、道教が盛んだったのです。その原因には、秦の時代の影響があります。儒教が選ばれない理由の一つは、儒教主義の中に、法治主義と共通する、厳しい部分が含まれていたからです。人々は、秦の厳しい法律と刑罰とに苦しめられたのです。そして、儒教主義の政治の中にも、法律と刑罰の部分が考えられています。そのため、儒教主義の政治は、人々から強く求められる政治ではなかったのです。
 また、漢の開始の時代に、儒教主義が選ばれなかった理由の一つとして、儒者の人材が不足していたことも考えられます。秦の時代に、焚書坑儒政策によって、国から儒教が追放されたのです。そのため、漢を開始する際には、国内は、儒者不足だったのです。漢の国の中には、儒教に詳しい人物がいませんでした。秦の国の中で、もしも、「有名な儒者」としての評判が世間に広まれば、国から処罰されるのです。そして、儒教の本も、世間に出回っていません。儒教の本がないので、儒教の勉強ができません。つまり、漢の開始の時代には、国民の中にも、政治家の中にも、儒教に詳しい人物がいなかったのです。そのため、漢の開始時代には、儒教主義の政治ではなく、道教主義の政治が選ばれるのです。道教主義の政治は、自然の成り行きに任せる政治です。漢の開始する時代は、道教主義の政治で、自然の流れを基本にして、国を治めるのです。
 しかし、漢の時代が進めば、儒教の勢力は大きくなります。国内の事情も複雑になれば、道教主義の政治だけでは国を治められません。社会の発達に伴って、自然主義の政治では限界が生じるのです。社会の整備のためには、法律の整備も欠かすことができません。国内体制の存続の上でも、儒教政治を推進するべきなのです。時代が変化すれば、その時代に対応した教説が求められるのです。道教主義の政治は、社会の未発達な時代には対応できたとしても、しかし、社会が発達した時代には対応できない、ということです。最初は、道教主義によって、大らかに、あいまいに、そして自然の成り行きで、物事に対処していたのです。しかしそれが、時代が進むにつれ、事情が変わるわけです。昔は許されていたことであっても、問題が発生する中で、次第に規制が厳しくなるものです。社会組織の整備の必要性があります。そのため、国の政治家は、儒教主義や、法治主義を選ぶことになります。国民の人々が道教主義を求めたとしても、国内体制のことを考える政治家は、儒教主義を選ぶのです。国の政治家は、道教よりも儒教を選ぶのです。国が発達して、それを維持させることを考えるのであれば、儒教で国を治めるのです。
 そして、漢の時代がさらに進めば、国に迷信が流行します。漢の時代が、道教主義から儒教主義へ進めば、その次の時代は、迷信を信じる時代になるのです。それは、儒教主義によって、漢の国が安定した証拠です。国内が成熟したのです。国内が安定したために、不真面目な態度が許される時代となるのです。国が安定しているので、真剣な態度だけを要求しない時代です。政治にも、気を抜くことが許されるのです。社会に余裕が出るようになったのです。その余裕の分だけ、迷信で政治を行うことができるのです。迷信で政治を行っても、国の体制は崩壊しないのです。人々も、日常生活の中で、迷信で行動を決定するのです。それは、社会に余裕が生まれた証拠です。儒教の基本さえ守っていれば、多少は迷信で将来の行動を決めたとしても、大丈夫なのです。人々が不真面目な時代です。
 そしてまた、漢の時代が進めば、仏教が中国に伝来します。中国内に、道教と儒教とは、別種の教説が入るのです。仏教は、道教の性格と似た部分があります。儒教が政治家のための教説であると考えれば、道教と仏教とは、民衆のための教説です。道教と仏教とは、国の政治から離れている教えです。漢の人々が仏教の伝来を受け入れたことは、漢の人々の、道教を信じる基盤があったからです。中国の人々は、儒教と道教との、両方を信じていたのです。儒教だけではなく、道教も信じていたので、仏教を受け入れることができたのです。
 そして、漢の時代の末期には、社会に動揺が起こります。社会に動揺を起こす政治家たちは、儒教を信じます。政治家は、儒教を勉強します。しかし、国民の多くの人々は、儒教、道教、仏教を、それぞれ、自分の都合良く身に付けているものです。社会の政治体制への信頼感が高まれば、人々の、儒教主義への期待感も高まります。しかし、社会の政治体制が動揺すれば、人々の政治不信を招くことになり、その結果、人々の間で道教と仏教とが流行する時代を招来します。つまり、漢の末期の、社会の動揺する時代には、民衆の人々の気持ちは、道教と仏教とを信じる方向へ向いていたのです。








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