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土曜日

現代の思想




ブーバーの『我と汝』について


 土曜日は、現代の思想の日です。今日の題は、ブーバーの『我と汝』について、です。マルティン・ブーバーの『我と汝』の書物は、独創的な内容である、という評価があります。
 ブーバーは、「我」の存在に対する考え方を、新しく主張します。「我」という存在から、人間は、世界を眺めているわけです。そのため、「我」という存在を見つめることから始めなければなりません。ブーバーは、「我」という存在を、どのように考えるのでしょうか。ブーバーは、現代の思想家であるため、近代以来の「我」の考え方とは、異なる考え方をする部分に注目しなければなりません。
 ブーバーの考える「我」の存在とは、関係の中において考えられる存在です。そのようなブーバーの「我」の考え方は、近代以来の、「我」の存在に対する一般的な考え方とは異なっています。近代以来の「我」の考え方は、自分の存在のみの「我」です。自分とは別の存在との関係を必要としません。「我」は「我」です。「我」が存在するためには、他の存在は必要ありません。近代以来の「我」は、絶対的に独立した存在を考えるのです。しかし、ブーバーの考える「我」は、関係の中で存在する「我」です。そのため、ブーバーの「我」は、絶対的に独立した存在ではありません。「我」は、自分以外の存在との関係の中で、「我」の存在を考えるのです。「我」だけでは、「我」にはならない、とブーバーは考えるのです。それがブーバーの根本的な考え方なのです。近代以来の「我」の根本的な考え方は、ブーバーよりも、「我」の存在を突き詰めて考えていたのかもしれません。
 近代以来の「我」の考え方には、無理があったのかもしれません。人間の自然な考え方、感じ方に、反していたのかもしれません。ブーバーの生きた現代の時代では、近代的な、極端な「我」の存在に対する考え方を、反省する姿勢があります。近代以来では、無理な考え方を強引に押し通していたのかもしれません。東洋人の場合は、昔から、「我」の存在を突き詰めて考えないものです。西洋人の「我」と、東洋人の「我」とには、違いが見られるのです。近代以来の西洋では、「我」の存在を、絶対的に独立した存在であると考えていたのです。それが、現代の時代では、「我」に対する考え方を変化させるのです。東洋的な、連続性の中で「我」の存在を考えるのです。西洋人も、東洋人の考え方に近づいたのです。無理があることを自覚したのです。生活の実感を大切にする姿勢です。生活感覚を重視するわけです。一般の人々の常識に逆らわない考え方です。西洋人も、日常的な生活感覚を大切に考えるのです。平凡な感じが、現代の西洋では新しく感じられるのです。近代以来は、人々の持つ常識を打ち壊すことを価値あることと考えていたわけです。
 しかし、ブーバーは、近代以来の「我」の存在の考え方を否定するのです。近代的な「我」の考え方には、無理があったのです。ブーバーは自分に正直だったのです。近代的な「我」は、日常的な生活実感からは離れているのです。ブーバーは平凡な感じを大切にするのです。理論と現実との整合性をブーバーは求めるのです。近代的な「我」の考え方では、理論と現実とが乖離しているのです。理論的には問題ないと考えられても、しかし、現実的には、理論通りに感じられないのです。現実の感覚には、現実の感覚の正しさというものがあります。理論の正しさと、人間の現実感覚の正しさとが、調和していなければならないのです。理論の主張だけを大切にするのではなく、人間の感覚の主張も大切に扱うのです。理論が生活感覚から離れているようであれば、理論を生活感覚に合わせるように修正しなければなりません。確かに、理論では、無理矢理押し通せるものです。しかし、人間の生活感覚は、無理矢理に変化させられるものではありません。理論にも、人間の実感が伴っていなければなりません。人間の実感が伴わない理論では、どうしても、違和感が発生します。理論の上では正しく考えられたとしても、生活する上では、納得できないのです。そのような場合は、理論を反省するべきなのです。頑固に理論を押し通すのではなくて、生活感覚に照らし合わせて、理論を修正させるのです。
 確かに、近代的な「我」の存在の考え方も、間違ってはいないのかもしれません。しかし、理論では正しくとも、人間の現実生活の中に適用した場合に、様々な問題が発生することを考えられます。理論を詳細に検討すると、問題点を引き出すことができるのです。理論を人間の生活に役立てるのです。人間の実際の生活を、向上させる理論でなければなりません。理論を理論だけで完成させることを目的としてはなりません。何のための理論でしょうか。人間の実際の生活を、幸福にするための理論であることが重要です。近代的な理論も、理論としては正しいものであるのかもしれません。しかし、理論と現実世界との、乖離が見られるのです。ブーバーは、現実的感覚を大切に考えます。ブーバーは、理論の正しさだけを徹底的には追求しないのです。理論的な正しさを徹底させることが、ブーバーの真の目的ではありません。人間たちの悩みを取り除かなければならないのです。
 つまり、理論だけの正しさを求めることが、人間の誤りの原因なのです。現代の世界を生きる人々は、様々な不安を抱えている現状です。そのような現状に対して、ただ欠陥のない理論だけを作り上げる態度は、許されないことです。人々の生活を向上させるような理論を考え出すべきです。時代に即した理論が大切です。人々の現実生活を観察した上で、理論を作り出すのです。理論を徹底させることが唯一の正解ではありません。時代の人々の悩みや不安を受け止める心が重要です。ブーバーは理論だけの学者ではありません。
 現代では様々な問題が起こっています。社会問題や、宗教の問題や、個人の孤独の問題などがあります。それらの問題に対して、ブーバーは答えようとします。ブーバーは現実問題に直面するのです。
 ブーバーは、人間の主体性の問題に立ち向かうわけです。現代の人々は、主体性を持って生きる必要があると考えられるのです。人間に主体性があれば、現代の人々の不安も解消できるものです。主体性のある人間であれば、社会の中でも満足に生きることができます。そして、主体性のある人間は、宗教とも理想的な関係を持つことができます。そのためにも、「我」の存在に対する、新しい考え方を見つけなければなりません。近代の考え方の「我」では、時代に対応できないのです。
 ブーバーが強調することは、「我と汝」の関係が、世界の中では重要である、ということです。それは、人間は主体性を持ちながら、他の事物とも関係を持たなければならない、という主張です。ブーバーは、人間が全人格的存在で生きることを理想としています。しかし、自分だけが全人格的存在の主体性を持つことができれば良いのではありません。個人の人間は、閉鎖的に生きてはならないのです。人間は、他者に対して心を開かなければならないのです。他者に心を開き、そして、他者と全人格的な存在同士で関わり合うのです。人間は、どのような場合にも、他者との関係の中で、心を開いて、他者と関わり合うべきなのです。神に対しても同様のことを考えることができます。神に対しても、人間は心を開いて関係を持つことが重要です。人間は、自分の中に閉じこもってはならないのです。ブーバーは、世界の中で、人間たちが、お互いに全人格を認め合うことを願っているのです。








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