水曜日
東洋の倫理・道徳
墨子の兼愛説について
水曜日は、東洋の倫理・道徳の日です。今日は、墨子の兼愛説について考えます。
墨子は、古代中国において活躍した人物です。墨子の主義主張は、墨子が活躍した当時の中国において、非常に流行したという話です。墨子の主義主張は、儒教の教えとは異なる部分を含んでいます。墨子の教えは、儒教の教説の通りではありません。
墨子の教えで、特に有名なものは、墨子の兼愛説です。それは、「自分を愛するように、他人を愛しなさい」という説です。広く大勢の人たちを愛すべきであることを、墨子は主張するのです。自分だけの事を考えて、他人の事を考えない、という態度は改めるべきなのです。自分よりも他人の事を考えるべきだ、ということです。自分の利益ばかり追求すれば、世の中が乱れる原因となるのです。墨子は、社会のことを考えているのです。
つまり、「自分を愛するように、他人を愛しなさい」という、墨子の兼愛説は、社会主義の主張なのです。公共の福祉を考えて行動をしなさい、ということです。自分の事だけを考えて行動すれば、社会の状態が悪くなるのです。しかし、自分の事よりも、他人の事を愛するように心がけて常に行動すれば、社会全体が良くなるのです。自分だけの幸福を追求するのではなくて、社会全体の幸福を追求するのです。それは常識的な意見です。
人間は一人で生きているのではありません。他人と助け合い、支え合って生きているのです。つまり、人間は社会の中で生きている、ということです。人間は一人だけで、社会から離れて生きられるものではありません。自分という人間は、社会と関係を持って生きなければなりません。そして、社会とは何であろうか、と考えるわけです。すると、社会とは、大勢の他人である、ということに気付くのです。つまり、自分と大勢の他人との世界の中で、私は生きているのだ、ということです。
では、そのような大勢の他人たちと、どのように関係を持つべきなのでしょうか。自分一人だけの幸福を考えれば、大勢の他人が不幸になるであろうと考えられます。しかし、大勢の他人が不幸になれば、自分も、その不幸に巻き込まれるかもしれません。自分の幸福を追求して、他人を不幸にした結果、その他人の不幸に、自分も不幸にされてしまう、ということです。しかし、自分は幸福になりたい、ということです。自分の幸福を追求するわけです。目的は自分の幸福です。その目的を果たすための、手段を考えなければなりません。それを考えると、自分一人を幸福にするためには、自分一人だけのことを考えていたとしても、限界があることに気付くわけです。つまり、自分は一人だけで生きているのではないから、世界の中で自分一人だけを幸福にするのは無理なのだ、ということに気付くのです。自分という人間は、社会の中に生きる人間であることに気付くのです。そのため、社会全体が幸福な状態でなければ、自分の幸福は実現できないのだ、と考えられるのです。世の中が悪いと、自分の生活も悪くなる、ということです。つまり、社会を幸福に導くことが、自分を幸福にすることを約束するのです。自分を幸福にするためには、社会を幸福にしなければならないのです。社会全体が、乱れて不幸な状態であれば、自分も不幸な目に遭うのです。他人の不幸を自分とは関係のないものと考えてはならないのです。
しかし、社会全体が幸福になれば、自分も幸福になる、ということは理解できたのではあるけれども、それを達成するための具体的な行動が分かりません。社会全体を幸福にするためには、具体的には、自分はどのような行動をとる必要があるのでしょうか。具体的な行動に移さなければ、社会全体は幸福にはなりません。そして、それを考えれば、「自分を愛するように、他人を愛しなさい」という結論が出るのです。具体的に考えれば、それが、社会全体を幸福にするための考えとしては結論である、ということです。
自分よりも、社会全体の幸福のことを考えるのです。自分の利益よりも、社会全体の利益を追求するのです。そして、社会全体とは、大勢の他人のことなのです。しかし、さらに具体的に考えると、大勢の他人とは、自分ではない人のことです。つまり、この世界は、自分か他人か、ということであると考えられるのです。それは、ある場所に、他人が一人でも存在すれば、そこには社会が形成される、という考えです。他人を社会と考えるのです。そして、その他人を愛するのです。社会全体の幸福を追求するための、核心というものは、他人を愛することだ、ということです。その要点さえ理解できれば、社会全体が良くなるのです。規模の大小は、問題ではありません。百人の他人は愛しても、一人の他人は愛さないとか、人口五十万人の都市は愛しても、人口五百人の町は愛さない、というような態度では、社会は良くなりません。対象となる人数の多さが問題ではないのです。問題は、自分よりも他人を愛することができるかどうかです。自分よりも、他人を愛することのできる人間となることが重要なのです。そのような人間になれば、どのような社会に置かれても、その社会を幸福にすることができるのです。
例えば、家族という社会の場合です。自分よりも他人を愛する態度を身に付けた人であれば、家族という社会を幸福にすることができます。また、人口三百人の村という社会の場合でも、それは考えられます。人口三百人の村を幸福な社会にすることができるのです。そして、人口の数が一億人を超える社会の中であろうとも、「他人を愛する」という要点さえつかんでいる人間であれば、どのような社会の中にでも通用するのです。
逆に、他人の数が一人の場合には、その他人を愛さない、というような態度の人間では、様々な問題が発生することになるのかもしれません。なぜなら、そのような人は、他人を愛する時と、他人を愛さない時があるからです。自分自身の都合の状態によって、他人を愛するのかどうかが左右されるわけです。その人は、時々他人を愛する、という態度です。その場合には、幸福な社会が実現されたり、実現されなかったりする事態となります。どのような小さな社会の中でも、そしてどのような大きな社会の中でも、常に幸福が実現されなければなりません。他人の人数が多い場合にのみ他人を愛する、というような態度では、小さな社会の幸福が達成されません。田舎の村、過疎の地域に住む人々の幸福も考えるべきだ、ということです。つまり、本当に自分よりも他人を愛することができる人、というのは、他人の人数が一人の場合から愛せる人のことなのです。他人の人数に左右されるようであっては、本当ではありません。
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