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金曜日

西洋の倫理・道徳




ボエティウスの『哲学の慰め』について


 金曜日は、西洋の倫理・道徳の日です。今日は、ボエティウスの『哲学の慰め』について考えます。ボエティウスは、西洋の中世に生きた人物です。ボエティウスは政治家でした。
 ボエティウスの『哲学の慰め』という書物は、ボエティウスが獄中で書いた書物です。ボエティウスは牢獄に入れられたのです。しかし、ボエティウスは、特別な犯罪を起こしてはいません。政治家としてのボエティウスが、政治上の理由によって、処刑される事態となったのです。
 そのため、『哲学の慰め』の書物の内容は、ボエティウスの獄中生活での、ボエティウスの心の状態と関わりがあります。ボエティウスは、死刑宣告を受けました。しかし、ボエティウスは、人間として正しい生活を送っていたのです。それにも関わらず、ボエティウスは投獄されたのです。それは、ボエティウスの運が悪い、ということです。悲運です。そこから、ボエティウスは、人間の運命の問題について考え始めるわけです。神と、世界と、人間と、運命との問題について、ボエティウスは考えます。
 人間の運命についての問題というものは、人間の幸福と不幸とについての問題でもあると考えられるわけです。人間は、不幸になると、運命のことを考えるのです。人間は、満ち足りた幸福な生活を送る中では、運命のことについて考えないものです。ボエティウスも、獄中生活の不幸な状況の中で、人間の運命のことを真剣に考えるのです。昔から、現代に至るまで、時代は移り変わったとしても、人間というものは、自分に不幸が訪れると、運命のことを真剣に考えるようになるのです。つまり、人間の運命についての悩みと、人間の幸福についての悩みとが、密接に結び付いている、ということです。人間は、幸福な日常生活を送ることができれば、人間の運命のことなどについては、考えないわけです。しかし、不幸な状況が、運命のことについて考える、機会を与えたのです。不幸な状況が、自分を真剣に生きさせるのです。不幸な環境の方が、かえって自分の力が湧いて出るようになるのです。幸福な生活の中では、力が抜けてしまうのです。訪れた不幸を、前向きにとらえるのです。「人間の運命について考える、良い機会だ」ということです。つまり、人間は不幸に陥るほど、真剣になるのです。ボエティウスも、不幸な目に遭って、『哲学の慰め』という、名著を書くことができたのです。人間は、不幸な体験からも、得られるものがあるのです。人間は、不幸な運命に遭遇することにより、それが自分を成長させる機会となるのです。
 そのようにボエティウスは考えて、投獄による落ち込みの気分から立ち直るのです。そして、ボエティウスは、徐々に気分を回復させながら、冷静に物事を考えるようになります。ボエティウスは、自分だけの運命の不幸を考えるのではなくて、人間全体の運命のことについて考えるようになるのです。ボエティウスは、正気に戻ることで、自分だけの狭い存在から離れて、問題を普遍的に考えるようになるのです。問題を自分だけのことであると考えるのではなくて、世界全体の真実についてボエティウスは考えるのです。ボエティウスは、視野を広めるわけです。ボエティウスは、自分だけの幸福について考えるのではなくて、人間全体の幸福について考えるのです。人間全体の幸福と、世界全体の幸福とをボエティウスは考え始めるのです。規模が大きくなるのです。
 ボエティウスは、善と幸福とを結び付けて考えます。人間は幸福を目指すのなら、善を目指さなければならない、とボエティウスは考えるのです。ボエティウスは、善人が幸福になると考えるのです。そして、悪人は不幸になるのです。つまり、ボエティウスは「悪人は地獄へ落ちるのだ」と考えていたものかもしれないのです。善人には幸福が訪れ、そして悪人には、不幸が訪れるはずなのです。しかし、ボエティウスのような善人が、不幸になる現実です。ボエティウスは善人であるのにも関わらず、ボエティウスには不幸が訪れているのです。そして他方では、ボエティウスのような善人を投獄して不幸に陥れた、悪人たちが幸福な生活を送るような現実です。本来であれば、悪人たちを処罰するべきであるのに、しかし処罰されるのは、善人である、ボエティウスなのです。そのため、ボエティウスは悩むのです。
 ボエティウスは、善人は幸福になる、ということを強く信じるのです。善と幸福とは、お互いに切り離すことはできないのです。ボエティウスは、善であれば幸福であり、幸福であれば善であると考えるのです。それは、神の存在とも関係があることです。ボエティウスは、神を信じるのです。そして、神の存在を考えれば、善と幸福とは、両者は一体であるという結論が出るのです。善と不幸とが、結び付いているはずがないのです。神が存在するのなら、善人は幸福になるのです。そして、神は存在するのです。ボエティウスは、神というものは、善であり、幸福である存在と考えています。神は、最高の善であり、最高の幸福である存在なのです。そのような神の存在を考えれば、人間が善に向かえば、人間に幸福が訪れることは当然のことなのです。
 ボエティウスの世界観が、そこにはあるのです。世界の創造者の、神をボエティウスは考えるのです。人間の運命と幸福とを考える場合であっても、究極の根拠である、神の存在を考えるのです。正しい考えは、正しい世界観から生まれるのです。人間の幸福についての正しい考えは、神の性質を考えることにより、正しく理解できるのです。神というものは、完全な善であるのです。その神が、世界を創造したのです。世界を創造した神が完全な善である存在であれば、世界の目的も善であると考えられるのです。神の目的が善であれば、世界の目的も善なのです。世界にも、進む方向があるわけです。その世界の進む方向が、善であると考えられるのです。それは、神の意志なのです。神が導いているのです。神の導きに従えば、その人間には、当然、幸福が約束されていると、ボエティウスは考えます。
 そのように、善なる神の存在を考えれば、悪人には不幸が訪れることを証明できると、ボエティウスは考えるのです。ボエティウスの主張では、悪人には不幸が訪れるのです。ボエティウスは、善と幸福とを強く結び付けているのです。ボエティウスは、自分の獄中の不幸な現実生活を、問題ではないと考えるのです。ボエティウスは、自分が悪人に投獄されたことは、神の世界の真実に対して、それほど問題であるとは考えていないのです。ボエティウスは、獄中生活の中でも、完全な善なる神の存在を信じるのです。「自分の信じる神は間違っていない」とボエティウスは考えます。
 ボエティウスは、世界の進行状況に対して、途中と結末とを考えるのです。世界全体は、善と幸福との未来に向かって進んでいるのです。しかし、その世界の進行の途中では、様々な不幸に出会うことになるのです。世界の結末から全体を見れば、途中の不幸な出来事も認められるのです。つまり、ボエティウスは、不幸な獄中生活の中でも、自分の幸福への希望を捨てず、そして、悪徳行動に走らず、善の心を持ち続けたのです。








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