火曜日
西洋の思想
バークリーの「知覚」について
火曜日は、西洋の思想の日です。今日のテーマは、バークリーの「知覚」について、です。バークリーは、近代の西洋で、経験論を主張した有名な人物です。
バークリーは、人間の心の重要性を説いています。バークリーは、心が世界であると考えるのです。心と世界とは同じものである、ということです。世界は心の中にあると、バークリーは主張します。世界と心とは、離れていないのです。心と世界とは、別々に存在するものではない、という考えです。心が世界の全てである、という主張です。バークリーは、その主張の根拠として、人間の「知覚」を考えます。バークリーは、一般の人々の常識を疑って、新しい意見を出したのです。人間の「知覚」を冷静に考えれば、心は世界なのです。
バークリーは、心を離れて独自に存在する、実在を否定するのです。心の外に、実在するものは何もない、ということです。なぜなら、バークリーにとっては、自分の心に知覚されるものだけが真実だからです。人間の精神に知覚されないものは、実在しないのです。そのため、「世界」というものが、人間の心を離れて、それ自体で存在するとは考えられないのです。つまり、人間は、世界を感じているのではなく、心を感じているのです。人間は、心に知覚されるものを感じているのであって、世界を感じているのではないのです。バークリーの考えでは、人間は自分の心の中で生きている、ということです。バークリーの主張する、絶対に確実な真実は、人間の心、精神、魂です。人間の心以外には、確実に存在すると考えられるものはありません。
例えば、岩石という物質も、岩石が独自に存在するのではないとバークリーは考えます。人間の心が岩石を作り出しているのです。岩石の色、岩石の形、岩石の固さ、重さなどの、岩石の実在を思わせるような性質は、人間の心の外には存在していないのです。岩石は、心の中に存在するものであり、岩石が心の外に独自に存在しているのではありません。岩石の他にも、食べ物の味を例にしても、同じように考えられます。例えば、レモンの味でも、レモンの味が、心の外に、独自に存在しているのではないとバークリーは考えます。心とレモンの味とが、結び付いているのです。
つまり、心を離れては、レモンの味は存在しないのです。一般の人々の常識では、自分の心とは関係なく、レモンの味はレモンの中に存在していると考えます。人々の常識では、心から離れて存在するレモンの中に、レモンの味が存在していると考えるのです。しかし、バークリーは、レモンの味は、人間の心の中で知覚するものであると考えるのです。つまり、レモンとは、人間の心なのです。レモンはレモンではなくて、人間の心なのです。人々の常識で判断されるレモンとは、厳密に言えば、「レモンを知覚する心」なのです。レモンは、レモンの色や形や味などを知覚する、人間の心なのです。レモンが独自に、人間の心を離れて存在しているのではないと、バークリーは考えるのです。
そのため、バークリーは、人間の心が知覚していないものは、存在していないと考えます。心が知覚していないものは、真実ではない、という主張です。つまり、人間にとっての世界とは、人間の心が知覚する範囲の世界である、ということです。人間の心を離れた世界が、独自に存在するのではないのです。世界は心から離れられないのです。世界は、心の中に知覚されるものなのです。それは、人間の空想の世界にも当てはまります。人間の空想の世界も、人間の心の中で、心が知覚した世界です。その世界は、人間の心の外には実在していない、ということです。人間は、世界を知覚するのではなく、心を知覚するのです。
それは、バークリーの世界観です。心の知覚だけをバークリーは真実であると考えるのです。つまり、バークリーは、独自の普遍的な真実の存在というものを否定するのです。そのため、人間の数だけ、世界の真実も異なっていると、バークリーは考えるのです。バークリーの主張が正しければ、人間全体に共通する、普遍的な世界というものは、存在しないことになります。それぞれの人間によって、世界の真実も異なるのです。人間には、共通の世界がないのです。人間が異なれば、それぞれの人間が、違う世界の中で生きているのです。一般の人々であれば、誰もが同じ世界の中で生きていると考えるものです。一般人であれば、同じ一つの世界の中で、多くの人々が生きていると考えるものです。世界は一つであると、一般の人々は考えます。しかし、バークリーの考えでは、世界は一つではない、ということです。人間の心の数だけの世界があるわけです。バークリーは、人間の心が世界であると考えるのです。そのため、心が違えば、世界も違う世界になると考えられるのです。バークリーの世界観は、精神論なのです。精神を変化させれば、世界も変化するという考え方です。人間が生きる世界は、精神の世界であるので、精神を入れ替えれば、世界もそれに対応した変化を見せるのです。人間の心の変化に、対応した世界が出現すると考えるのです。
つまり、バークリーの世界観は、固定した一つの世界観を、人々に押し付けない世界観なのです。バークリーの世界観とは、人間によって、世界は様々に異なっているものである、という世界観です。普遍的な一つの共通した世界の中を、人間は生きているのではない、ということです。そのため、人間は、自分で自分の生きる世界を、変えられることになります。人間には、自分の生きる世界を変える、自由があるわけです。バークリーの世界観を持てば、人間は、自分の心の自由で生きることができるのです。そのようなバークリーの世界観は、人間に希望を与えるものかもしれません。しかし、問題点を考えることもできます。それは、自由な世界である反面、孤独な世界でもある、ということです。個人主義の強い世界観なのです。人間それぞれが、個人主義で生きる世界観です。そのため、個人には、自由と責任と、孤独とがあります。
バークリーの世界観の問題点は、孤独感があることです。その世界観の中には、人間の連帯感がありません。人間の存在がそれぞれ、世界の中で孤立しています。バークリーの世界観は個人主義なのです。その世界観では、人間は、集団全体で同じ世界の中を生きられないのです。一人一人が違う世界を生きるのです。自己責任主義の世界観です。バークリーの世界観を持つのであれば、人間は、独りで強く生きなければなりません。自分の世界を自分で作るのです。人間の心が、そのまま世界であるので、自分の世界を自分の心で決めるのです。自己決定の必要があります。
つまり、バークリーの世界観には、希望と不安とが共存しているのです。世界は、自分の心の中にあると考えるのです。世界と心とは同じものなのです。そのような世界観からは、希望を得られるのかもしれません。しかし、それ以上に、人々に不安感を与えるのかもしれません。人間は、人間全体に共通の世界の中で生きたいと思うものです。世界の中で、誰一人として、同じ世界の中に生きていないのです。個人主義のために、人と人との間で、関係を持たずに、独りで生きるような世界です。バークリーの世界観からは、「開いた世界観」という感じを受けないものかもしれません。人と人との間の世界が、開いてはいないのかもしれません。個人の中で、世界が閉じられているのです。しかし、バークリーの世界観には、現実味があります。バークリーの世界観は、人々の常識から外れているのかもしれませんが、しかし、現実味があります。人間の人生の現実を感じさせるのです。人間の人生の現実には、希望と不安とが入り交ざっているものです。
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