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土曜日

現代の思想




ベルクソンの「道徳と宗教」について


 土曜日は現代の思想の日です。今日は、ベルクソンの「道徳と宗教」について考えます。ベルクソンは、現代の思想に大きな影響を与えた有名な人物です。
 ベルクソンは、道徳と宗教とに対する意見を表明しています。人間の道徳、そして、人間の宗教の本質とは、どのようなものであるのか、という問題をベルクソンは考えます。人間にとっては、道徳と宗教の問題は重要なものです。
 ベルクソンは、道徳と宗教の源泉を考えるわけです。道徳と宗教の、源泉を考えることで、それらの本質を探るのです。道徳と宗教とが、なぜ生まれたのか、とベルクソンは考えます。人間と関わりの深い、道徳と宗教とは、どのような状況で発生したと考えられるのでしょうか。道徳と宗教とは、人間の近代文明が発達する以前の、遠い昔から、人間集団と関わり合いのあるものです。古代の時代であっても、人間が集団を作れば、道徳と宗教とが、人間文化として発生するものです。
 ベルクソンは、道徳と宗教とを、静的か動的かによって分類します。道徳と宗教とにも、それぞれ、静的なものと、動的なものとを考えることができるのです。静的な種類のものは、閉じた、閉鎖的な性質を持っています。そして、動的な種類のものは、開いた、開放的な性質を持ちます。つまり、ベルクソンは、道徳と宗教との種類を、全部で四種類に分けて考えています。二種類の道徳と、二種類の宗教とをベルクソンは考えるのです。そして、ベルクソンは、それらの四種類に対して、源泉を考えます。ベルクソンは、四種類に分類される道徳と宗教との、全体の源泉を考えるのです。
 ベルクソンは、道徳と宗教との源泉を、自然であると考えます。自然が源泉となり、道徳と宗教とが発生するのです。人間と自然とが、関わり合うことで、全部で四種類ある道徳と宗教とが発生したと、ベルクソンは考えます。ベルクソンの考える自然とは、科学的に考えられる自然にも当てはまるものです。ベルクソンの考える自然は、実証的な科学としての、自然学にも対応しています。人間の存在を、ベルクソンは科学の視点からも考えるのです。ベルクソンは、人間の存在に対しての研究を、長年続けたのです。ベルクソンには、実証科学の教養がありました。その上でベルクソンは、道徳と宗教との源泉を、自然であると考えたのです。ベルクソンの主張には、実証科学の研究の成果が盛り込まれているのです。
 まず、道徳と宗教とには、静的な種類のものを考えることができます。静的な種類の道徳と宗教とは、どちらも、自然を源泉として発生するものです。つまり、人間に道徳と宗教とが発生したことは、自然な出来事であると考えられるのです。人間が存在すれば、自然に、道徳と宗教とが発生するわけです。「自然に発生する」ということは、必然的である、というようにも考えられます。つまり、人間が生きるためには、道徳と宗教とが、人間にとって必要不可欠である、ということです。そのため、人間が生きる場所には、必ず道徳と宗教とが生まれるのです。ベルクソンは、人間の自然の性質を、実証科学的に研究した上で主張します。人間の生存のためには、道徳と宗教とが必要なのです。
 静的な種類の道徳と宗教とは、人間の生命維持の役割を持つわけです。静的な、閉じた、閉鎖的な道徳と宗教です。それらの種類のものは、人間の個体の生命を維持存続させるために、最低限、必要とされるものです。つまり、静的な種類の道徳と宗教とには、自由がない、ということです。道徳と宗教との源泉は、人間の自由な理性であると主張する人物もいます。しかし、ベルクソンは、全ての種類の道徳と宗教とが、人間の自由な理性を源泉としている、とは考えません。静的な種類の道徳と宗教とは、人間の生物的な生命を維持させるためには、絶対に必要なものです。人間の生命がかかっているのです。人間が集団で生きる上では、絶対に守らなければならない、集団のルールです。人間は集団で生きるわけです。その人間集団の中の、絶対的な掟です。
 まず、人間の集団は、自分たちの集団の生命を維持しなければならないのです。静的な種類の道徳と宗教とには、そのため、自由がないのです。人間の生物としての法則が、自然に、必然的に、静的な道徳と宗教とを発生させるのです。そのため、静的な道徳と宗教とは、それほど、個人の人間の快適さや、幸福さを問題とはしません。人間集団の維持存続のための、絶対的な掟なのです。集団の中の人々が、圧迫感や苦しみを感じたとしても、守らなければならないものです。静的な道徳と宗教とを、人間は生きるために、我慢してでも守らなければならないのです。人間の集団の生命維持を、第一目標と考えているわけです。静的な道徳の場合は、人々に圧迫感をもたらし、そして、静的な宗教の場合には、人々に不合理感をもたらします。静的な宗教に対しては、人々は疑問を抱くものですが、しかし、疑問を抱いてはならないのです。不合理で狂信的な宗教であっても、人間は生命維持の必要上から、それを信じなければならないのです。静的な道徳と宗教とは、人間の生命を保護する性質を持つのです。
 それに対して、動的な種類の道徳と宗教とを考えることができます。動的な種類の道徳と宗教とは、静的な種類のものと同様に、自然を源泉にして発生します。しかし、動的な種類のものは、奥深い自然から発生するものと考えられるのです。動的な種類の道徳と宗教とは、人間の奥深い自然の源泉から発生するのです。静的な種類のものは、表面的な自然が生み出したのです。静的な種類のものは、動機が単純で短絡的なのです。静的な種類の道徳と宗教とには、「感動」がないのです。感動する心が重要であると、ベルクソンは考えます。静的な種類の道徳と宗教とは、その人間集団にとって、都合の良い内容なのです。静的な種類の道徳と宗教とは、それらを信じる人間集団にとって、都合良く考えられているのです。それぞれの集団の中で、閉じているわけです。静的な種類のものは、それぞれの集団の内部で閉鎖しているのです。その原因は、自然の源泉の深さが表面的だからです。
 動的な種類の道徳と宗教との源泉は、奥深い自然です。そのため、世界中の人間集団の中に広がる性質を持っています。動的な種類のものは、人間の奥深い自然である、感動する心が、生み出したものです。その感動が、集団と集団との壁を乗り越えて、全体の集団に伝わるのです。静的な種類のものが、閉じたルールであるのならば、動的な種類のものは、開いたルールである、ということです。ある集団の中では、守るべき掟であっても、他の集団の中では、守る必要性が、静的な種類のものには、ないわけです。ある集団から離れれば、守るべきルールが異なるのです。人間は、自分に圧迫感を与えるルールや、不合理な狂信的ルールには、積極的には従わないものです。しかし、動的な種類のものは、ある集団を超えて、その他の集団の中にも広がりを見せ、そして、人々に守られるのです。動的な種類の道徳と宗教とは、開かれた性質を持っています。
 つまり、道徳と宗教とは、人間が生きる上で、守るべき性質を持つものです。そして、それが人間全体に対して、どの程度開かれているのかが問題なのです。表面的な自然の源泉からは、静的な種類のものが発生することになり、そして、深い自然の源泉からは、動的な開かれた種類のものが発生するわけです。しかし、「深い自然の源泉」を、さらにまた乗り越えた、高次の深い自然の源泉からは、さらに人間全体に開かれた、動的な道徳と宗教とが発生すると考えられるのです。人間は、深い自然から、さらに深い自然へと進むのです。人間と自然との関係の中で、道徳と宗教とが発生するのです。つまり、人間の持つ自由の性質によって、人間は自然へと立ち向かうのです。








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