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金曜日

西洋の倫理・道徳




アウグスティヌスの「原罪」について


 金曜日は、西洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、アウグスティヌスの「原罪」について、です。アウグスティヌスは、キリスト教の信者です。西洋の中世期において活躍した人です。アウグスティヌスは、キリスト教を信仰すべきことを主張します。
 この、アウグスティヌスの「原罪」というものは、アダムの犯した罪のことです。アダムが、りんごを食べてしまったことです。アダムという人は、人間の最初の先祖の人なのです。その最初の先祖の人が、罪を犯したということです。人間の一番最初の人が、罪を犯したのです。人間の原点であるような人が、罪を犯しているのです。アダムは、人間の一番最初の人であり、人間の根本的な存在であるような人なのです。全ての人の共通した、一番上の先祖に当たる人です。その全人類の一番の代表者のような人が、罪を犯したということです。「原罪」です。
 そしてその、先祖の原罪が、子孫に影響を与えているのです。全人類の共通の先祖が、罪を犯したことにより、人間の遺伝子に、犯罪者の遺伝子を組み込んでしまったというわけです。つまり、アダムが罪を犯したことで、人間の遺伝子の中に、犯罪者の遺伝子が入ってしまうことになった、ということです。そのため、アダムの子孫の人間は、誰もが罪を犯す人間となってしまった、ということです。アダムが、人間の性質を決定してしまったのです。アダムの行動が、人間に、犯罪者として生きるような宿命を負わせてしまったのです。
 アウグスティヌスによれば、アダムが、りんごさえ食べなければ、人間は不死の存在であったということです。しかし、アダムが、りんごを食べたことで、人間には寿命が定められました。そしてまた、人間は様々な欲望を抱く存在になったということです。つまり、人間は本来、天上界で暮らすような存在であったのです。天上界で、人間は欲望を抱くことなく、純心無垢な魂を持って、不老不死で生きる存在だったのです。それを、アダムが、人間を汚してしまったのです。アダムは全人類の先祖です。全人類の先祖は、全人類の子孫に影響を及ぼすのです。アダムが罪を犯したことにより、人間の魂は、悪の魂を持つようになったのです。アダムが罪を犯すまでは、人間の心には、「悪い心」などは、沸き起こらなかったのです。善良な心そのものだったのです。「悪い心」などは、一つも持っていなかったのです。それが、しかし、アダムが罪を犯したことで、人間の子孫全員が「悪い心」を持つようになってしまった、ということです。肉体は欲望にまみれ、寿命も短くなってしまったのです。
 つまり、先祖の問題は、子孫の問題でもある、ということです。先祖と子孫とは、全然無関係ではないということです。先祖の失敗が、子孫の多くを苦しめることにもつながるのです。つまり、遺伝の問題です。先祖が自分の体に悪い遺伝子を持つようになれば、その子孫が苦しむことになるのです。そしてまた、先祖の借金問題でもあります。先祖の負債に、子孫が苦しめられるのです。アダムの場合も、神に負債を作ったと考えられるのです。神に返しきれないほどの負債を作ったのです。せっかく、神様が、人間を、天使のような存在として造られたのであるけれども、それをアダムは、人間を堕落させる行為を行ったのです。それは人間の子孫に多くの負債を残すことになったのです。一人の先祖が原因で、数え切れないほど多くの子孫たちが、苦労することになったわけです。人間の最初の先祖が、神様の教えを守っていれば、大勢の子孫たちが幸福に生活できた、ということです。一番上の先祖が間違いを犯せば、子孫全員が間違った方向へ進んでしまう、という話です。
 しかし、子孫たちからすれば、「自分たちは特別に悪い行動をとってもいないのに、どうして自分たちが苦労しなければならないのだ」という思いです。確かにその通りです。つまり、「アダムが悪いことを行ったのだから、アダムがその責任を取るべきだ」ということです。アダムが神様に謝罪をして、神様に自分の罪を許して貰うのです。子孫からすれば、先祖が犯した罪は、その先祖自身で罪を償って欲しいものです。「どうして悪いことを行ってもいない子孫が、先祖の犯罪行為で苦しめられなければならないのだ」ということです。つまり、先祖は自分自身で犯した罪について、それなりの責任ある行動を取らなければ、子孫たちは納得しない、ということです。
 子孫たちは、自分たちが苦労をするのなら、その苦労する分に見合うだけの、納得できる理由が欲しいものです。子孫たちは、納得できる理由もなく、先祖のために苦労しようとは思いません。つまり、先祖の負債を引き受けることを子孫たちは拒否するのです。しかし、先祖が負債を作るにあたって、何らかの深い事情があれば、話は別になります。
 まず、先祖は、その負債を抱えるに際して、避けることのできない、やむを得ない事情があったのかどうかが問題となります。そして次に、先祖がその負債を抱えた後、その負債を返そうと、努力したのかどうかが問題となります。そのような問題に対して、先祖の取った行動が果たして、正しいものであったのかどうかが、子孫たちにとっては問題となるのです。先祖の行動が、子孫たちに認められるものかどうかが問題となるのです。
 まず、最低でも、子孫たちに、「理解が得られる」という行動を取らなければなりません。それは必要最低限の行為となるわけです。自分たちが負債を作り、それが原因で子孫たちを苦しめるのですから、当然、子孫たちの理解を得る必要は最低限あるのです。そしてまた、子孫たちに、先祖としての、「誠意を示す」ということも必要でしょう。子孫たちは、先祖たちが作った負債を返すために、苦労することになるのですから、その見返りとして、子孫たちに何らかの、「誠意を示す」というわけです。先祖の「原罪」問題です。先祖の幸せが、子から孫へ、孫からその子へと伝われば、微笑ましいことですが、しかし、先祖の作った罪も、子から孫へ、孫からその子へと伝わるということも考えられるのです。先祖は子孫たちに罪を残すのなら、先祖の罪を引き継ぐ子孫たちの身にもなって、少し考えるべきではないのか、ということです。








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