金曜日
西洋の倫理・道徳
アリストテレスの「度量の大きい人間」について
金曜日は、西洋の倫理・道徳の日です。今日は、アリストテレスの「度量の大きい人間」について、考えます。
アリストテレスの語る「度量の大きい人間」というものは、つまり、「常に困難な行動をするような人間」であるわけです。人間の行動は、大別して、簡単にできる行動と、簡単にはできない行動とに分けられるものです。そして、アリストテレスの考える、「度量の大きい人間」とは、常に、簡単にはできない行動を取る人だ、と考えることができるわけです。楽々にできるような行動をとっても、度量の大きい人間であるとは認められないのです。それは感情についても同じことが言えます。感情についても、楽々に持つことができるような感情を持っても、度量の大きい人間であるとは認められないのです。たやすく持つことができる感情を持ち、たやすくできる行動をとる人間は、アリストテレスが考える、度量の大きい人間ではないのです。
そのことに伴って、そのアリストテレスの考える度量の大きい人間は、軽蔑の感情を、よく抱いているのです。度量の大きい人間は、周囲の事物に対して、軽蔑の気持ちを多く持つということです。度量の大きい人間は、細かい事物など、軽蔑する程でなければならないということです。度量の大きな人間は、へり下ってはならないのです。度量の大きな人間は、軽蔑をすることは認められても、へり下ることは認められないのです。しかしまた、度量の大きな人間は、常に困難な行動をとる人物であることを忘れてはならないのです。
その、度量の大きい人間が、軽蔑をすることを許されるのは、その軽蔑の行動が、困難な行動である場合にだけ認められるものなのです。楽々にできる軽蔑の行動は、度量の大きい人間のすることではないのです。例えば、自分より弱い立場にある人を軽蔑したとしても、度量の大きい人間ではないのです。そのような事をする人間は、度量の醜い人間なのです。度量が大きい人間の行う軽蔑というものは、一般の人々が、軽蔑できないような事物を軽蔑するのです。しかし、度量の大きい人間は、自分が行った軽蔑に、見合うだけの行動をとることができなければなりません。大きな事物を軽蔑するだけは軽蔑しておいて、それに見合うような行動ができなければ、見かけ倒しになるのです。度量が大きい人間とは、へり下りでも、見かけ倒しでも悪いのです。度量が大きい人間は、へり下る人間以上の態度を取り、見かけ倒しの人間以下の態度を取るのです。度量の大きい人間になるには、軽蔑をかなり頻繁に行うことは認められるのですが、しかし、見かけ倒しになってはならないのです。
そのような、度量の大きい人間が行う、「軽蔑」というものは、「威厳を保つ」と言い換えてもよいかもしれません。度量の大きい人間は、常に自分の威厳を保つことができる人間だということです。度量の大きい人間は、自分よりも強い立場にある事物に対しても、自分の威厳を保つべきなのです。度量の大きい人間は、へり下ってはなりません。例えば、組織のボスの前でも、自分の威厳を保つことです。また、会社の社長の前でも、へり下るようなことをしてはなりません。また、山の中で熊に遭遇した場合でも、熊の前で自分の威厳を保ち、そして、海の中で巨大なサメに出会っても、巨大サメにへり下ってはなりません。
アリストテレスの考える、度量が大きい人間は、自尊心があるということです。そのことが周囲の人間に、横柄な態度をとっていると感じさせる原因にもなるということです。度量が大きい人間は、尊大な態度をとるのです。しかしその態度は、見かけ倒しの態度ではないということです。能力以上の態度ではありません。社長の前で尊大な態度をとれば、誰もが度量の大きい人間になれるのではありません。その社長と同等の能力がないのにもかかわらず、その社長の前で尊大な態度をとれば、野卑な人間となるのです。
アリストテレスの「度量の大きな人間」とは、その自分自身に対する尊厳の気持ちと、自分以外の周囲に対する軽蔑の気持ちとを、常に持っているような人間であると考えられるわけです。自分には尊厳を持ち、自分以外の事物には軽蔑の気持ちを持つのです。そのため、そのような「度量の大きい人間」は、世間一般の人々が「価値のあるものだ」と思っているものを得られたとしても、それほど喜ばないということです。なぜならば、自分以上に価値があり、尊厳のあるものは他にはなく、そして、自分以外のものは軽蔑されるものだからです。そのため、名誉ある賞を人から受けたとしても、「度量の大きい人間」は、自分の尊厳が満たされることはないので、あまり喜ばないのです。そのことが、一般の人々に、横柄な態度であると見られるわけです。「あれだけ多くのものを得ていながら、まだ満足しないとは、欲張りな人だ」ということです。
しかし、度量の大きな人間は、世間の人々からいくら非難を浴びようとも、人々にへり下るような行為をすることはなく、自分の尊厳を保つということです。そしてまた、やはり、度量の大きい人間は、困難な事をするのですから、隠れるとか、逃げるとか、騙すとか、嘘を言うとか、そのような卑怯な行動をとらないということです。度量の大きい人間は、正直に、自分の感じている真実を、そのまま正々堂々と話すということです。度量の大きい人間は、正直者であり、自分の感情の真実を隠さないということです。つまり、アリストテレスの考える、「度量の大きい人間」とは、自分自身に尊厳を持ち、自分以外の事物を軽蔑することは多いけれども、正直者であり、勇敢であり、逃げ隠れするようなことはない人間だというように考えられるのです。
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