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金曜日

西洋の倫理・道徳




トマス・アクィナスの「神の本質」について


 金曜日は、西洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、トマス・アクィナスの「神の本質」について、です。トマス・アクィナスという人物が活躍したのは、中世時代です。
 トマス・アクィナスは、神の本質とは、どのようなものであるのかについて考えています。神の性質として考えられるものは、いったい、どのようなことなのでしょうか。神の存在についての証明も、トマス・アクィナスは考えています。神の存在は証明することができると考えるのです。トマス・アクィナスは、神は必ず存在する、ということを、論証によって明らかにするのです。そして、その神の存在証明とも関係して、神の本質についても考えることになります。神の存在を証明するためには、神の本質についても合わせて考えなければならないのです。つまり、神の本質を考えることが、神の存在を証明することに役立つのです。
 そもそも、神の存在を証明しなければ、信仰生活が始まりません。信仰生活を始めるにあたっては、神の存在は必要不可欠です。神の存在を、まず最初に確認しなければ、信仰生活は成り立ちません。深く信仰するためには、神の存在を信じなければなりません。神の存在について疑いが残るようでは、深い信仰生活はできません。確かに、神の存在について、疑いの気持ちを、全部晴らすことができないような状態であっても、信仰生活をすることは可能であるのかもしれません。しかし、そのような信仰生活では、調子が上がらないのです。ありがたさを、なかなか実感できないのです。神の存在を疑いながら、神に感謝などをすることはできない、ということです。神に感謝の気持ちを捧げられる態度を作るためにも、神の存在の確実性は、まず最初に納得しておかなければなりません。そして、納得するためにも、納得できるだけの根拠がなければなりません。「何となく、神は存在するような気がする」というような程度では、人々は納得できません。神の存在に対する疑問を晴らすことはできません。
 そこで、神の存在証明をする必要があるのです。その、神の存在証明によって、人々の疑問を完全に打ち消すのです。神の存在を疑っていては、信仰ができません。神の存在を証明することは、信仰生活を始める際には、特に重要なことなのです。そのような重要な事柄を見過ごしてはなりません。
 そしてまた、信仰生活を送っている最中であっても、神の存在についての確認をすることは、自己の信仰心を深めることに役立つのです。なぜなら、神の存在について考える時には、神の本質についても同時に考えることになるからです。神の本質を考えることで、信仰生活のありがたさを実感することができるのです。そして、神の本質を考え続けることで、神の存在に対する疑問も消えていくのです。神の存在を証明するためには、神の本質についても考えなければなりません。しかしまた、神の本質について考えることが、神の存在に対する確信をも深めることにつながるのです。つまり、神の本質について考えることは、深い信仰心を養うためには重要なことなのです。
 では、神の本質とは、どのようなものが考えられるのでしょうか。どのように神の本質を考えるのでしょうか。人間が勝手に神の本質を考えられるのでしょうか。そして、人間が勝手に考えた神の本質というものが、実際に神の本質として正しいものなのでしょうか。トマス・アクィナスは、どのように神の本質を考えるのでしょうか。
 トマス・アクィナスの、神の本質を考える方法というものは、推理による方法です。確実な根拠から、確実な真実を推理するのです。確実な根拠というものは、世界や人間を観察することで得られます。世界の事実と、人間の事実とを、確実な根拠とするのです。つまり、自分と、自分の身の回りの環境を観察すれば、神の本質を考える材料は集められるということです。判断材料は、理性的に集められるのです。そして、理性的に集めた判断材料によって、理性的に神の本質を推理するのです。感情的に神の本質を考えるのではないのです。神の本質というものは、信じる、信じない、の問題ではなくて、事実である、という姿勢です。事実は事実だ、ということです。事実であるのですから、疑う余地はないのです。それは、数学の正しさと同じようなものなのです。神の本質について考えられることは、数学の証明問題について考えられる正しさと同じだ、ということです。それほど正しいことなのです。理性によって理解できる正しさです。テレパシーだとか、霊感だとか、そのような能力は必要ありません。分かる人だけに分かる、というようなことではありません。「偶然分かる」というものではないのです。誰にでも、はっきりと理解することができるのです。信じる、信じない、疑う、疑わない、という話ではないのです。事実であるということです。トマス・アクィナスの考える、「神の本質」というものは、そのような、人間であれば誰もが事実であると認められるものです。人間が興奮した状態ではなくて、冷静な状態で判断される内容です。
 つまり、トマス・アクィナスが考える、「神の本質」というものは、その結果以外のことは絶対に考えられない、というほど、確実なものだということです。それは、物理学の運動法則と同じ程度の確実性なのです。すべての物が地上に落下する現象と、同じほどの正しさです。トマス・アクィナスが神の本質について考える際に注意したことは、まず、自分の勝手な思い込みを捨てたことなのです。自分の思い込みを捨てて考えたことなのです。まず、世界と人間とを観察して、事実を集めたのです。事実を積み重ねた結果、得られた真実というわけです。そこには、自分の独りよがりの意見などは入っていないということです。その正しさは、客観的に認められることなのです。トマス・アクィナスの考える「神の本質」とは、そのように、信仰心のない人にでも納得させられる内容なのです。神の存在について、疑いを持つ人に対しても、理性的な対応をするのです。「神の本質」というものを、強制的に信じ込ませるような態度ではありません。無理矢理押し付けるものではありません。冷静に、理性的に考えた上で、意見を示すのです。そしてその意見は、誰がどのように考えようが、正しいということです。間違ってはいないということです。真理であるということです。








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