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金曜日

西洋の倫理・道徳




アンセルムの「本体論的証明」について


 金曜日は、西洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、アンセルムの「本体論的証明」について、です。アンセルムは、中世の西洋において活躍した人物です。
 アンセルムは、「本体論的証明」によって、神の存在を証明します。アンセルムは、神を信仰しています。アンセルムの「本体論的証明」は、当時の神学者たちから批判を受けました。当時の学界では、評判が悪かったのです。しかし、その後、アンセルムの「本体論的証明」は、近世の西洋において、形を変えて復活しています。アンセルムの説は、近代的な雰囲気があったのです。中世の時代の雰囲気には、アンセルムの説は合っていなかった、ということです。それは、アンセルムの説が、知性的であったためかもしれません。西洋の中世の時代は、宗教への信仰心の厚い時代です。その時代に、主知主義的な説を唱えれば、人々に受け入れられない可能性があります。アンセルムの態度が、西洋の中世の一般的な態度とは異なっていたのです。アンセルムの態度は、近世の時代であれば、受け入れられるような態度です。近世の西洋では、主知主義的な雰囲気があります。しかし、アンセルムの態度には主知主義的な部分があるのですが、アンセルムは科学者ではありません。アンセルムは教会の大司教にも任命されている人物です。アンセルムは、神に対する信仰心の厚い人物です。アンセルムの時代は、科学の発達していない時代です。つまり、アンセルムは、人間の知性を、科学を解明することに使用するのではなく、神の信仰に対して使用するわけです。人間の知性の能力は、科学の研究にも使えるのですが、しかしアンセルムは、神の信仰に対して使うのです。西洋の近世に入れば、人々は、人間の知性の能力を、科学の研究に向けて使い始めます。そしてまた同時に、人々の神への信仰心は、近世の時代から薄れ始めます。アンセルムの場合は、神への信仰心が厚かったので、近世の人々の主知主義の態度とは異なります。
 アンセルムの「本体論的証明」は、人間の知性と信仰心とを両立させる説です。一般的には、人間の知性と信仰心を、両立させることは難しいものであると思われるものです。人間の知性には、疑う能力があります。そのため、知性の発達した人間は、神の存在を疑うことが多いのです。神を疑う姿勢には、神を否定する気持ちが入っています。知性的な人間は、神の存在を疑い、そして、神の存在を否定します。人間に知性がなければ、人間は神の存在を疑うことはありません。神の信仰に対しては、人間の知性が邪魔になる場合もあるわけです。その場合、人間の知性と信仰心とが、両立しないのです。知性が、神を疑うのです。それは、神に対する信仰生活を送っている人々の多くが持つ、大きな悩みの一つであるのかもしれません。神に対する信仰心を持っている、その本人でさえ、自分の知性が神の存在を疑うのです。人間は、信仰心と知性とを、同時に持つことはできないのでしょうか。信仰心は、神を肯定する心です。知性は、神を否定できる心です。信仰心と、知性とが、反発し合うものであるように思えます。人間が完全に神を信仰するためには、人間は知性を捨てなければならないのでしょうか。人間に知性がある限り、人間は、完全な神への信仰心を持つことができないのかもしれません。
 アンセルムの場合は、信仰心と知性とは、両立できると考えます。人間は、神を信仰するために、知性を捨てる必要がないのです。人間は、知性を持ちながら神を信仰することができると、アンセルムは主張します。一般的には、信仰生活においては、知性の能力は邪魔なものとなります。信仰生活では、神を疑うことは厳禁です。そのため、人間の知性の能力を否定的に考えたりするものです。つまり、宗教が、人間の知性の発達を妨害する問題です。宗教が、人間に対して、神を疑うことを禁止するのです。宗教が、人間に対して、盲目的な態度を強要するわけです。それは、人間の知性の発達を閉塞させる行為かもしれません。宗教を信仰する心と、知性とを、両方同時に人間は持つことができるのか、という問題です。アンセルムは、宗教のために、知性を閉塞させる必要はないと考えます。アンセルムの説では、信仰心と知性とを両立させることを考えます。宗教の信者となる場合、必ずしも、盲目的態度をとる必要はないと考えるのです。
 これは、宗教に関する重要問題の一つです。信仰心と知性とを、どのように両立させるべきかを考えなければなりません。宗教の信仰が、人間の知性の発達を閉塞させるのであれば、宗教は人々を困惑させます。信仰心と知性とを、両方同時に、矛盾なく持つことができるのであれば、宗教は人々に迷惑を及ぼしません。宗教の、盲目的な態度を人間に強要する行為は、人間にとって迷惑行為です。人間は、人間らしい特性として、知性を持つ存在なのです。人間は、知性を持って日常生活を送っています。そのような、人間と密接な関わり合いのある知性を、閉塞させるべきではありません。アンセルムは、知性を大切にします。信仰心と知性とは、矛盾しないのです。何事に対しても疑い深い人物であっても、信仰心を持つことは可能なのです。高度な知性を持ちながら、人間は宗教を信じることができると考えるのです。宗教の信仰に対して、知性の有無は関係のないことであるとアンセルムは考えます。知性は信仰の邪魔をしないのです。
 知性の能力を、アンセルムは、信仰に役立たせています。アンセルムの「本体論的証明」は、神の存在を知性的、合理的に証明しています。神の存在は、知性によっても明らかにされるのです。信仰心でも神を信じられると同時に、知性によっても神を信じられるのです。確かに、知性は神の存在を疑うことがあります。しかし、知性によって、神の存在に対する疑いを晴らすこともできるのです。知性が、神の存在への疑惑を晴らすのです。知性が、信仰心を補強します。知性によって、人間は信仰心をさらに厚くすることができるのです。知性は、宗教を否定するためだけの能力ではありません。宗教の肯定のためにも、知性を使用することができるのです。信仰と知性の両立は、問題のないことであるとアンセルムは考えます。それは、知性によって、神の存在を完全に証明できるからです。
 神の存在証明を行うアンセルムは、盲目的な態度で信仰心を持っていたのではありません。アンセルムには、知性があったのです。一般人は、知性によって神の存在を否定するものです。しかし、アンセルムは、知性によって神を肯定します。アンセルムは、宗教に対して、知性を有効活用します。神に対する疑いの気持ちを、知性が解消します。まず、神を信じることから信仰生活が始まります。
 アンセルムの「本体論的証明」の持つ問題は、思惟が存在を導き出せるか、ということです。考えられた存在が、実際にも存在するのかしないのかが問題です。つまり、「本体論的証明」の中で考えられる神の存在が、実際にも存在するものであるのかどうかが問題なのです。アンセルムは、知性によって証明された神は、実際にも存在すると考えます。実際に、神が存在するのかしないのかが問題です。「本体論的証明」によって、神の存在は、人間の知性の中で証明されます。しかし、人間の知性の外に、実際に神が実在するとは限りません。それは、人間の知性の限界であるのかもしれません。人間は、知性だけでは神を理解することができないのかもしれません。つまり、宗教の信仰に対しては、知性を偏重する態度は慎むべきなのです。しかし、そのことは、信仰心と知性とが両立しないことを意味しません。宗教の信仰の際には、人間は知性を持つことができるのです。信仰心を持ちながら、人間は知性的でもあることができるのです。つまり、人間の知性を閉塞させる必要がないのです。知性の発達は厳禁ではありません。知性があれば、社会的生活を不自由なく送ることができます。








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